キリストのへりくだりに生かされて

フィリピの信徒への手紙2章12~18節

 主イエスは神の御子でありながら人間と同じ肉の形を取られ、へりくだりの姿をもってこの世にご誕生され、死に至る迄神に対して従順な生き様を示されました。神は主イエスを模範として、へりくだりと従順さを私達に求めておられます。従順とは「聞く」という事から「聞き従う」という意味になった言葉で、逆らわない、という消極的な態度ではなく、神の声に従うという積極的な態度です。イスラエルの王サウロが神の命令に背き、神のご機嫌を取ろうと犠牲を捧げた時、預言者サムエルは主が喜ばれるのは捧げ物ではなく何よりも主の御声に聞き従う事である、と戒めました。従順という事の本来の意味が示されています。(I・サムエル15:22)
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のまま望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(12~13節)神を恐れつつ生きる時に神の力が内側に働かれ、救いの達成に努めるよう助けてくださいます。地上で宣教されたキリストに力を与えた同じ力が私達にも与えられて、完成に至らせ、その力は御言葉と祈りを通して現れます。御言葉の力は信じている人々の内にだけ働かれます。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と、マリアに対する御使いの約束ですが、神の御言葉に信頼し従ったマリアに神の力が及びました。又、祈りなしに神が我が内に働く事はありません。神に用いられた人は聖書の中でも例外なく祈った人々です。大切な事は神の力に明け渡し、御心を願い求める者とさせて頂く事です。「何事にも、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)神の力に抵抗し自分を明け渡す事が出来ない時、不平や理屈を言います。一方、神に従順な人はいかなる環境にあっても外なる悪に打ち勝ち、主イエスの光を輝かしていく者とさせて下さいます。(15節)
 パウロはこの手紙を獄中で死刑の判決が下されるような厳しい状況の中で記しました。彼はキリストのへりくだりに生かされ、従順な思いは苦難の只中にあっても主イエスの光を輝かせました。神に従い通す喜びは、殉教に勝るものであると言い切ったパウロです。(16~18節)このように神の力に明け渡した時、従順は闘いではなく喜びとなります。キリストのへりくだりに生かされ、従い通す喜びを頂く事ができますよう求めて参りましょう。

感謝の叫びをあげよ

詩編100編1~5節

 神から選ばれた神の民にも関わらず、イスラエルの民は敵国のバビロンに捕囚の民として連れ去られました。神に逆らうならば神に選ばれた者であろうと懲らしめますが、彼らの信仰が本物となる為の神のご計画です。「バビロンに70年の時が満ちたなら・・・この地に連れ戻す・・・平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。・・・そのとき、あなたたちがわたしを呼び来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く・・」(エレミヤ29:10~14)と、神の時が来て、当時の預言者エレミヤの言葉が成就しました。このようにこの詩編は彼らがエルサレムに戻り神殿復興して再び礼拝をお献げした時の感謝の歌で、苦難を通して「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた・・・」(3節)事を知る為でした。
 周囲が如何に暗黒であろうと神に依り頼む信仰を捨てず神を求め続けるならば、信仰の実を結び涙が拭われる時がやってきます。苦しみを通して以前にも勝る神の恵みを体験して「主こそ神」であると、主に依り頼む者の勝利の感謝の告白をする者となりました(3節)。神はいつも善い恵み、幸いをくださるから善い神であるというような利益に関係したものではありません。彼らは何度も神に背いて罪を犯し、国は滅ぼされましたが神は見捨てたのではなく「主は恵み深く、慈しみはとこしえに」(5節)と、神のご愛は変わりません。信仰から離れそうになった時に鞭打たれます。身をもって全てをご支配くださる真の神を知ったイスラエルの民は、霊と真、感謝をもって礼拝をお献げするようになり、飛躍的に信仰が成長して行ったのです。
 「主の門に進み・主の庭に入れ・御名をたたえよ」(4節)礼拝の招きです。私達は人間の罪の為に十字架にお架かりになった主イエスの犠牲を通して、滅びから救ってくださった「主こそ神」である事を見せて頂き、週毎の礼拝を感謝してお献げしています。地上生涯が終わりやがて天国に入る時に最大の意味で、感謝しつつ「主の庭」に入る事ができます。要求の多い私達ですが、何をするにも優って日々、イエス・キリストの十字架を仰ぎ、「主こそ神である」と、感謝の叫びをあげましょう。それが神の要求であり、喜んで頂ける事です。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」(1~2節)

救いの約束(モーセ)

出エジプト記2章1~10節

 私たちは妻・夫・子・親・兄弟姉妹・家族・友人、大切な人、愛する人たちの救いと祝福を求めて言葉を尽くし、涙ながらに祈ります。主なる神は言葉にならないうめきも、救いを求める赤ちゃんの泣き声も、祈りとして受け止め、必ず顧みて下さいます。モーセの出生(2:1~10)の奇跡もまた然りです。
ポイント1 【赤ちゃんの可愛らしさは、その誕生を神が喜ばれたしるし】
 2節の『可愛い』の原語トーブは「良い、美しい、恵み、喜び、楽しみ」の意。直訳『見た、良かった』は創世記1章『神はこれを見て、良しとされた』を想起します。神はモーセを喜ばれて可愛らしさを与えてお守り下さいました。主は私たちの誕生をも喜んで下さいます。
ポイント2 【祈り紡いだパピルスの籠は、祈りに応える神の箱舟】
 3節の「ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」両親は決してモーセを捨てたのではない!断じてそうではない!「パピルスの籠」は両親の祈りです。むしろ我が子の生命を守り、救い出して下さるお方、最も信頼する主なる神の御手に最愛の子をお委ねしたのです。『籠』の原語タバーは創世記6章の『箱舟』と同じ。神の箱舟は地上を覆う大水に浮かぶ木の葉のようですが、乗る者の生命を必ず守り、大水から救い上げる主の御手ですから安心です。モーセは奇しくもファラオの王女に引き上げられて王女の子(10)、80年後に神に召されイスラエルの指導者となりました。
結語
 主なる神と父祖アブラハムとの約束(創22:18)は、この後モーセを通して律法とカナンの地を与えられました。しかしこの出来事は、キリストの十字架と復活による贖いのひな形に過ぎず、キリストこそ律法の完成者,罪からの真の救い主です。ですから、私たちは主イエス・キリストの御名によって祈ります。私たちの愛する人の救いと祝福を祈り求める時、私たちはその人の行く末全てを、父なる神の御手にお委ねします。キリストによる救いの完成を互いに喜び祝う日を願い求めましょう。主は私たちの祈りに必ず応えて下さいます。

走り抜ぬいた人々に囲まれて

へブライ人への手紙12章1~13節

 人は誰も死を迎え人生のゴールである天の故郷・天国を目指す競争に参加しているようなものだといいます。その競争とは、罪を犯し神を悲しませる私達を限りなく愛してくださり、イエス・キリストによって罪から救われた者としての闘いです。それは誰も代わる事ができない一人一人に定められた信仰者の競争です。「・・・すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(1節)
 しかし、走っているうちに様々なものに惑わされ、不必要な思い煩いに悩まされながら目標を見失って行き、神なき罪の世界へと引き入れられ、競争を途中で投げ出したり、諦めてしまうようになります。走り抜けられるように重荷や罪をかなぐり捨てなさい、その為にはどのような犠牲も惜しんではならないと主イエスは仰せられます。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取ってしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイ5:29~30)
 走る力を失い、罪を犯すのはキリストから目を離している時ですから「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら・・・」(2節)ゴールを目指します。人生は目で見続けるものと、心に思う思いによって形づくられていくもので、虚しいものに目を向けていると罪に陥り競争から脱落して行きます。主イエスを仰ぎ見つつ歩む人生は、自ずと心は引き上げられ目標を見失う事なく、罪からきよめられ天の国のゴールへと導かれていきます。
 ゴール迄には困難や苦難を伴いますが、神は実を結ばせるために私達を訓練なさいます。「およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(11節)偉大な人は何かを成し遂げる人ではなく、苦難に耐える人です。当座の苦しい今は天国への備えであり、やがての未来を生み出す為の今です。今の苦難はやがての栄光に必ずつながっていきます。栄光を受ける為に神の前から迷子にならないように主イエスを仰ぎ見つつ走り抜いて参りましょう。孤独な闘いではなく既に走り抜いた信仰の先達者が競技中の私達を囲んで声援を送って下さっています。