感謝の叫びをあげよ

詩編100編1~5節

 神から選ばれた神の民にも関わらず、イスラエルの民は敵国のバビロンに捕囚の民として連れ去られました。神に逆らうならば神に選ばれた者であろうと懲らしめますが、彼らの信仰が本物となる為の神のご計画です。「バビロンに70年の時が満ちたなら・・・この地に連れ戻す・・・平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。・・・そのとき、あなたたちがわたしを呼び来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く・・」(エレミヤ29:10~14)と、神の時が来て、当時の預言者エレミヤの言葉が成就しました。このようにこの詩編は彼らがエルサレムに戻り神殿復興して再び礼拝をお献げした時の感謝の歌で、苦難を通して「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた・・・」(3節)事を知る為でした。
 周囲が如何に暗黒であろうと神に依り頼む信仰を捨てず神を求め続けるならば、信仰の実を結び涙が拭われる時がやってきます。苦しみを通して以前にも勝る神の恵みを体験して「主こそ神」であると、主に依り頼む者の勝利の感謝の告白をする者となりました(3節)。神はいつも善い恵み、幸いをくださるから善い神であるというような利益に関係したものではありません。彼らは何度も神に背いて罪を犯し、国は滅ぼされましたが神は見捨てたのではなく「主は恵み深く、慈しみはとこしえに」(5節)と、神のご愛は変わりません。信仰から離れそうになった時に鞭打たれます。身をもって全てをご支配くださる真の神を知ったイスラエルの民は、霊と真、感謝をもって礼拝をお献げするようになり、飛躍的に信仰が成長して行ったのです。
 「主の門に進み・主の庭に入れ・御名をたたえよ」(4節)礼拝の招きです。私達は人間の罪の為に十字架にお架かりになった主イエスの犠牲を通して、滅びから救ってくださった「主こそ神」である事を見せて頂き、週毎の礼拝を感謝してお献げしています。地上生涯が終わりやがて天国に入る時に最大の意味で、感謝しつつ「主の庭」に入る事ができます。要求の多い私達ですが、何をするにも優って日々、イエス・キリストの十字架を仰ぎ、「主こそ神である」と、感謝の叫びをあげましょう。それが神の要求であり、喜んで頂ける事です。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」(1~2節)