家族の宗教改革

マルコによる福音書1章29~34節

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)救いは一個人のものではなく、家族単位で救われる事を主イエスは望んでおられます。しかし現実は、隣の他人には伝道しても最も身近な家族となると「我が家は到底無理・・・」と尻込みしてはいないでしょうか。自分の判断で主イエスの業を制限している事がないか、今一度顧みたいものです。信じた者の家が、家族が、廻りの者が、神の恵みに触れる場となる希望が本日の箇所には記されています。
 会堂で教え、癒しの権威を示された主イエスは「すぐに、一向は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」(29節)と、全てを捨てたシモン=ペトロの家に目を留められました。私達が後回しにしてしまうような、ためらってしまうような所に神は働かれます。
 ペトロの家で主イエスは姑を癒し、その直後に彼女は一同をもてなしました。もてなすとは「仕える」という意味で、姑は直ちに主に仕える者とさせて頂きました。その夕方には、ペトロの家に多くの人々が集まり、癒され神の恵みに触れました。信じた者の家が祝福され、そこに集まる者が祝福へと広がっていったのです。
 「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も100倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(10:29~30)ペトロや弟子達は主イエスに声をかけられ、自らの仕事や生活、家族を捨て従いましたが、主イエスが真っ先に向かわれたのは何と捨てた筈の我が家で、多いに祝福されたのです。神の御業が起こったのは、主イエスの「ついてきなさい」の一言に、網を捨てて従った結果です(1:18)。捨てるとは、自分の思いを通す生き方ではなく、今は分からなくとも主イエスのご計画に希望をもって喜んで全てを委ねる事です。主イエスに従う事は自分だけではなく、家族の祝福に繋がります。謙遜に神に仕え、心から家族を愛し、主の御業を待ち望みましょう。

みんなが驚いた教え

マルコによる福音書1章21~28節

 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(22節)主イエスが今迄誰も聞いた事がない、神の権威を持って会堂で教え始めた時の出来事です。神と敵対させ神の支配から遠ざける悪しき霊=汚れた霊に取りつかれた男が叫びました(23節)。主イエスはこの汚れた霊に「黙れ、この人から出て行け」と、お叱りになるとこの人から出て行きました(25~26節)。
 主イエスの御言葉は神の権限を示すと共に、悪しき霊に支配され苦しんでいる者を神の恵みの支配の元に入れさせてくださる力です。この世の権威は人を犠牲にして自分の強さを誇ります。しかしキリストの権威は、ご自身が十字架にお架かりなって犠牲になられ、罪人を神の恵みの支配に生かす力です。キリスト者とは、私の人生に徹的に関わってくださるキリストの権威の元に身を寄せ、キリストと共に生きる者です。
 汚れた霊は「・・我々を滅ぼしに来たのか・・」(26節)と、複数で表現され、様々な悪しき霊に支配されている事を表します。このような様々な悪しき霊に支配され、翻弄され神を見失っていく私達です。偉大な伝道者パウロも「自分のしていることが分かりません・・・いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ロマ7:13~23)と、この世にあって見えない悪しき霊との戦いだと言います。(エフェソ6:10~18)。しかし、主イエスはこの時権威をもって「黙れ、この人から出て行け」と叫ばれ、汚れた霊から解放され神に立ち返った出来事を私達は初代教会の時代から今に至るまで、そしてこれからも語り続けられていきます。
 週毎に礼拝をお献げするのは、少しばかり道徳的に良い人間になろうとして神の前に立たせて頂いているのではなく、主イエスの権威あるお言葉を頂き、様々な悪しき霊から解放されてキリストの権威の元に身を置き続ける為です。神との正しい関係にある時、私の思いが生きるのではなく、神が私達を力強く生かしてくださり、様々な汚れた霊の支配から解放され、真に神に愛されている者として確信して歩む者となります。
 

わたしについて来なさい

マルコによる福音書1章16~20節

 「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(18節)主イエスが宣教に出られた時に最初に目を向けられたのは、日用の糧を得る為に湖で漁をしているシモン達です。私達と同じように普通の日常生活している極、平凡な生活をしている人々に声をかけられ、最初の弟子にされました。弟子として求められているのは、資質や能力等ではなく「ついてきなさい」と仰せられるイエス・キリストの後に従う歩みです。
 「すぐ網を捨てて従った」と続いて記されています。網は漁師にとって不可欠で大切な道具ですが執着する事なく、呼びかけに即座に応えました。彼らは主イエスの招きに応え、「人間をとる漁師にしよう」という約束のお言葉にこれからの人生を神に託しました。生活の為に働く今迄の人生に決別し、神が自分達を用いてくださる、という約束された新しい人生に踏み出しました。神の約束のお言を聞いても、踏み出さなければいつまでも約束で終わり、状況は何も変わらなかったでしょう。信仰に生きるとは、自分は神に呼ぱれ、神の招きに応え続けて生きていくという事です。招きに応え続けられずペトロのように主を裏切ってしまう者でも、網のはころびを繕うように弱さ、破れを繕ってくださる神は、招き続けて用いてくださいます。
 2度目に声をかけられたヤコブやヨハネは父と雇人たちを舟に残して従いました。自分の親やこの世の務めに対して無責任になって山にこもって仙人のような生活をしたのではありません。アブラハムは愛する息子イサクを祭壇に捧げ、一旦は手離しましたが、神は手を下されずにイサクをアブラハムの元に返されました。これまでの血肉の父と息子の関係ではなく、神からの与かりものとしての新しい親子関係として歩みました。血肉で結ばれている古い人間関係を一旦断ち切ったのです。
今の日常生活の延長上にキリスト者としての生活は成り立ちません。キリストに従うという事は、一旦自分の持っている大切な物を断ち切り、捨てる事が伴います。こうして神との新しい関係が築かれていきます。廻りの状況は何も変わりませんが、古いものは過ぎ去り、全てが神との新しい関係の中で歩み始め、主の御用の為に用いられていきます。

世の富

テモテへの手紙一6章1~12節

 今朝、私たちはテモテへの手紙一 6章1~12節から、現代の人間社会に生きる私たちのキリスト者としてあるべき姿を学ぶ。
●「神の御名とキリストの教えが冒涜されないようにしよう」(1~2)
奴隷ではないが、私たちにも上下関係はある。一人のしもべの悪態は直ぐに福音と父なる神の御名への非難となる。主人を愛し益々熱心に仕え、むしろ主人が神を賞賛する日が来ることを祈り求めよう。
●「異教を説き、主イエス・キリストの教えに従わない者達を避けよう」(3~10)
「信心を利得の道と考えること」は、神を畏れ敬う心(の者)を商売道具とすること。金銭欲はすべての悪の根であり、人を滅亡と破滅に陥れる(9b)。
●今こそ、「自分に与えられた恵みに満足することを覚えよう」(6~10)
金銭欲に相対するものは「満ち足りることを知る」ことである。
主イエスは「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ12:13~21)を語られ、パウロも「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない」(7)、「満ち足りることを知る者(6,8)となりなさい」と勧める。「食べる物と着る物」とは、恵み深き神が私たちを愛し育て養うためにお与え下さる「恵み」である。私たちはいつでも「主よ、感謝します。あなたの恵みは私に十分です。アーメン」と祈ることが許されている。
●「神の人よ、4つの命令を守り、潔く義しい生涯を送ろう」(11~16)
「神の人」とは「神の器として尊く用いられる人」のこと。パウロは年若きテモテに、私たちに、「神の人」を目指しなさいと呼びかけている。私たちが満ち足りることを知り、パウロの4つの命令
①金銭の欲と避けなさい、
②正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和、以上6つの徳を追い求めなさい、
③信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい、
④永遠の命を手に入れなさい、
を守り抜くならば、
私たちは世を去るときに、6つの徳(正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和)を身にまとい、永遠の命を必ず頂けるという確信を握りしめ、喜びに満ち溢れて天の御国へ昇ることができる。そこに待っておられるのは、永遠の生命をお与え下さる天のお父様、そして主イエス・キリストである。
主の恵みと御愛に感謝しつつ、潔く義しい生涯を全うしましょう。ハレルヤ

グッドニュースをあなたに

マルコによる福音書1章12~15節

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)主イエスが宣教活動の際の第一声のお言葉ですが、一生涯、宣べ伝えられたお言葉の要約でもあり、現代の私達にも語られている福音書の中心です。
 「神の国=天国」とは、地図に描かれているような地理的な場所を示すものではなく、又、この世の命を全うして死んでから、初めて行く所でもありません。「神の御支配」という意味ですが、神の権力によって人を束縛し、断罪する事ではありません。「神の国は近づいた」とあるように、神と罪人である人間との隔絶された間柄を取り持ち、罪からの救いの為に主イエスが一人一人に限りなく近くにおいでくださり、共に歩んでくさる事を意味します。神の愛の憐れみの中に入れられる事を示します。主イエスのご降誕の時から既に神の国は到来していますが、未だ完成されておらず、私達はその途上を歩んでおり、やがて主イエスとまみえる時に完成されます。
 主イエスは神にも関わらず、罪人の一人として洗礼を受けられた後「霊はイエスを荒れ野に送り出された」(12節)と、神は愛する主イエスをいきなり孤独と暗闇の中に投げ出されました。主イエスの歩みは正に十字架という荒れ野に向かって行った人生です。それ故に私達が経験する人生の荒れ野の中にも主イエスは身を置いてくださるから、私達はそこで祈り、神の声を聞き、共にいてくださる事を知る事ができます。荒れ野の中にこそ救いが必ずありますから先ず、「悔い改めて福音を信じなさい」と仰せられます。
 悔い改めとは、神に背を向けていた歩みを神の方へ向き直す事です。修行して、まともな善い人間になって向き直すのではなく、見せたくないような罪・汚れを抱えたまま、ありのままの自分を主イエスの前に明け渡し、心からの赦しを願う事です。悔い改めるなら誰でも福音=罪からの勝利の喜ばしいグッドニュースは誰のためでもない、この惨めな私の為、と分かり感謝し感動させて頂けます。裁かれても仕方のない者を救う為に、神である主イエスの方から近づいてくださいました。決定的な特別の神の時が来たから、信じない者ではなく、信じる者となって救われなさい、と今も語り続けておられます。日々配信されるグッドニュースに感謝し感動し続けましよう。