キリストを見つめ、キリストに充たされる教会

エフェソの信徒への手紙4章1~16節

 エフェソの教会の人々に「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(3節)とパウロは語っています。一致を保つように、という事は教会は既に一致は与えられているという事です。「体は一つ、霊は一つ・・・一つの希望・・信仰は一つ」(4~6節)と神の支配の雄大なる一致、キリストにある一致の豊かさです。教会は私達が造り出したのではなく、神によって建てられたもので私達は後から加えられ、キリストを見上げるように、キリストを仰ぐように私達は招かれています。教会が貫いているのは個人の思いや個性でもなく、主イエスの御心です。御心をなして行く為に教会に存在する私達です。
 「こうして聖なる者たちは、奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついにはわたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(12節)教会内に大牧者イエス・キリストを現す為に、神は特別な人の才能を用いるのではなく、漁師の網を繕うように、全ての人を繕い整えて造り上げて、それぞれに相応しい賜物を与えて用いてくださり(7節)、ちっぽけな私達がキリストの豊かさに与り、キリストの身の丈に成長させてくださいます。
 「むしろ愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(15節)聖書には「成長」という言葉が繰り返されていますが私達への神の願いで、神から与えられたこの命が絶えず育っていく事を期待しておられます。既に神に愛されて神の物とされた私達ですから、只一筋にキリストを見つめて従うなら、私が何をしたいのかではなく、神が私に何を求めておられるのか、聖書からお聞きし共に祈り合って一致を保っていきます。そうしてキリストの愛に根ざした建設的な言葉によって、それぞれが成長しキリストに充たされた一つの体なる教会を建て上げていきます。それがキリストの力です。

神のミステリー 

エフェソの信徒への手紙3章1~13節

 「秘められた計画が啓示によって私に知らされました。」(3節)
 異邦人は神から選らばれていない故に汚れた民だと、ユダヤ人より差別されていましたが、神のご計画はユダヤ人のみならずイエス・キリストにおいて異邦人も同じように神の民とされると、パウロは神の秘められた奥義を示されました。異邦人に福音を伝える事が主から委ねられた使命であると、パウロは自らを「キリスト・イエスの囚人」(1節)と称して異邦人伝道に命を献げ尽くしました。
 「・・・異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(6節)同じ集団というレベルを超えて、一つの同じ体に属し共に異邦人も神の民とされます。主イエスは自らを医者に譬えて、罪人はそのままでは滅びに至るので、罪という病を治す為にこの世に来られたと仰せられました(マタイ9:9~13節)。キリストの元にあっては何の差別もありません。恵みを受け取るのに同じ体であり、共に永遠の命を受け継ぐ者です。私達もそのようにして神の憐れみによって招かれ、罪から救われた者です。
 パウロはローマ帝国によって捕らわれ、囚人の身でありながらも「キリストの十字架のほかに、誇るものが決してってはならない」と、生涯に亘って全存在をもって福音伝道に命をかけました。私達が誇るものは何でしょうか。どのような功績を残したか、どのような仕事をしてきたか、どのような名誉を頂いたか、ではありません。何者でもない者が、神の憐れみによって罪から救われ、神の民にされた事、それだけが誇りです。あらゆる差別や偏見の心を打ち砕いて頂き謙虚にされ、共に一つの体としての教会を建て上げて行く為に、神の御栄光を現す為に教会に遣わされています。それが神の秘められた奥義です。教会に遣われされている、という事はその一事だけです。

安息日の主

ルカによる福音書6章1~11節

 ユダヤ教では安息日である土曜日に礼拝するが、キリスト教では主イエスが復活された日曜日を安息日として礼拝を守っている。
●安息日は神が私たちに与えて下さった休息の日である。
「そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」(ルカ6:5)
安息日は人類に対する神の愛の現れであり、出20:10b、出23:12b、出31:13bなどにその精神が記されている。ファリサイ派はモーセの律法に様々な規定(口伝律法)を加えてイスラエルの民を束縛し滅びへ向かわせたが、主イエスは父なる神から頂いた愛の精神に基づく律法解釈(マタ22:37-40)を説き人々を救いへと導かれた。安息日は神が私たちに与えて下さった休息の日である。休息を与え給うた神に感謝しよう。
●安息日には善を行い、生命を救うべし。
「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』」(ルカ6:9)。
主イエスほど神の目に善なることを追い求めたお方はいない。どんな時にも躊躇なく私たちに善を行い、私たちの生命を救われた。人々に善をせず人々の生命を救わないことは、主イエスの目には即ち悪を行い滅ぼすように映る。私たちにもキリスト者だからこそ出来る善がある。躊躇することなく世の人々を教会にお招きし、生命と魂の救いへ導こう。
●『人の子は安息日の主である。』
私たちが熱き信仰を以てこの御言葉を振り返る時、「人の子」とは私たちの救い主、主イエス・キリストであることを確信する。私たちの罪を全て担い、御自ら十字架に架かって私たちを贖われたお方である。イエス・キリストこそ私たちの主である。そのお方が復活された日はなんと素晴らしい日か。私たちは日曜日を安息日として礼拝を捧げ、主の復活を祝うのである。
ハレルヤ!『人の子は安息日の主である。』

キリストにある平和

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 キリストの血による和解について記されていますが、初めにイスラエルの民と異邦人との和解が記されています。イスラエルの民は神から選ばれた民という間違った選民意識・プライドから異邦人を蔑視し、敵意という壁を作っていましたが(11~13節)、十字架によって民族の隔てが取り除かれ、外国人も寄留人の差別もなく聖なる神の家族となって教会を建て上げていく姿が描かれています(14~22節)。
 イスラエルの民のみならず人は「汝と我、神と私」の関係を結ばず、人との関係の中で自分の立場を守ろうと、人と比較しながら壁を作って優位な立ち場を得ようとして、敵を作りながら歩みます。主イエスは、神の律法を必死に守って自らを誇るファリサイ人と、罪を悔い改める徴税人の話をされました。ファリサイ人はプライドを守る為に常に背伸びをして傲慢になり、人との比較の内に壁を作り蔑視していました。徴税人は「神さま、こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と、罪の赦しを願う対照的な姿が描かれています。この二通りの姿が教える事は神との関係で罪の赦しを乞う生き方か、人との関係で自分を正当化するかの違いです。アダムが罪を犯した時、罪を認めず「女が」と、言い訳をし、女は「蛇が」と言い訳しましたように、神と直結できない私達人間です。このように神に対して罪を犯し、神の栄光を受けるに相応しくない者となった人間に対して、神自らが敵意を打ち壊し交わりの回復の和解の道を開いてく為に十字架に架かってくださいました(14~18節)。主イエスが望んでおられる事は、互いの敵意と罪を悔い改めて、和解する事です。主イエスは最後迄ご自分の身を守ろうとせず、不義を甘んじ、奪われるままにその身を差し出して息を引き取られました。私達の傲慢と敵意を打ち砕く為です。徴税人の如く「罪びとの私を憐れんでください」と、傲慢と敵意をキリストの恵みによって打ち砕かれるよう祈り、キリストにある平和を作り出し神の家族とさせて頂きましょう。