12月26日礼拝説教概要

「主において常に喜びなさい」 フィリピの信徒への手紙4章1~9節
 パウロは獄中で死刑が宣告されるような状況でしたが、キリストにある喜びを実感していました。神に見出され罪より救われてキリストが我が内におられ、生涯の全てが喜びと平安の内に変えられていた為です。そこで、喜びが失せているフィリピの教会の人々に「主において常に喜びなさい・・どんな事でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ・・」(4~7節)と、キリストにある喜びを証しするように勧めています。教会の集いはキリストの喜びを分かち合う為で、今も昔も変わらない教会の本来の姿です。
 一般的にいう喜びとは状況に左右される受け身的なものですが、キリスト者の喜びとは、神に見出されている事を根拠としています。クリスマスの夜、羊飼い達は神に見出された事を純粋に喜びましたが、この1年間神の恵みを喜び続けているかというと、そうではない事を認めざるを得ません。「・・・主の御計らいを何一つ忘れてはならない」(詩編103:2)思い煩いとは心を砕くという意味があり、心があの事・この事に分散し心配事で神経をすり減らして、備えられている神の恵みを見失っている状態です。罪とは道徳的な欠けではなく、神を忘れるという霊的な欠けを言います。神の計り知れない憐れみと慈しみを意識の外にやってしまう為に思い煩いに陥り、常に喜ぶ事ができなくなってしまうのです。
 思い煩いに時間を用いず、祈りの為に時を費やすならばキリストが我が内にある事を実感し神の導きに感謝し、神を喜ぶ者へと変えられていきます。ジョージ・シュチュワートという人は神の導きがないと思うのは、たまにしか祈らないからで常に祈っているなら、神の導きを感謝し、神からの平和が与えられると語っています。「喜びなさい」とは神からの命令であり神の御心です。神を喜びたいと願っても、神に顔を向けられない程心が痛んでいる時がありますが、キリストにある喜びを得たい、と祈っているなら神が必ず応えてくださいます。神の御心だからです。

12月19日礼拝説教概要

「上から降りてこられたキリスト」 フィリピの信徒への手紙2章6~11節
 神の御子が天からこの世に人となって降りて来られたクリスマスを一言でいうなら、歴史上の最大の奇跡です。主イエスは神であるにも関わらず、飼い葉桶でお生まれになりましたが、飼い葉桶は貧しさ・低さ・惨めさを表し、キリストが歩まれたへりくだりの御生涯の象徴です。「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)。このように御自身を無にしてこの世に来られたのは全人類が罪を告白し救われて、神を称える為でした(11節)。
 心に痛みを覚えた時・病を抱えた時、廻りの方の助言や慰めに素直に感謝したいと思いながらも、心の片隅には私の痛みが本当にわかるのか、と問うてしまいます。実の所、自分が経験した事のない他人の痛みは理解できません。誰にも理解して貰えない苦しみ・悲しみ・痛み・罪を我が事としてその身に引き受ける為に、身を挺して飼い葉桶にお生まれになりました。「あらゆる点において、私達と同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15~16)とありますように、あらゆる苦しみを通られ、十字架に架けられて陰府に迄降ったお方ですから、私達は主イエスの慰め、励まし、戒めのお言葉は真実だと信じ感謝して受け取り、罪の告白ができ救われるのです。
 「私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し・・彼らを導き上る。」(出3:8)と、主イエスは降りっぱなしではなく復活の後、天に昇られました。私達を天に導いて頂く為に罪人と共に洗礼を受けられ、虐げられている人々と共に食事をし、孤独と病に闘っている人へ恵みの手を伸ばされた人生でした。罪から救われて輝く天の御国へと引き上げてくださる為です。主イエスの光は御自身を照らす為ではなく、全人類を照らす為で、そのご生涯は黒子に徹っせられました。今も低い所に立ち、下で受け止めてくださりながら私達を輝かせて天に引き上げてくださっているイエス・キリストの恵みに今一度感謝を献げましょう。

12月12日礼拝説教概要

「先駆者」 ゼファニヤ書3章14~18節
 クリスマスを迎えるに当たり、主イエス・キリストの先駆者、バプテスマのヨハネの存在の重要性と彼の言葉の真意を学ぼう。ゼファニア書は3章からなり「全ての預言書の約言」と呼ばれ、冒頭に「主の言葉」巻末に「・・・と主は言われた」と記す全文が神の言葉である。その中心は「神が人間の歴史に介入する『主の日』」の概念であり、主の日の裁きと祝福の両面を均等に記す。
 「先駆者」とは、メシヤ登場以前に、世の人々にメシヤ受容を準備する者である。その存在はイザヤ40:3-5、マラキ3:1、マラキ3:23-24に預言された。先駆者ヨハネの「悔い改めよ。神の国は近付いた」とは「神に立ち帰れ。神の支配は今や地上に及ぼうとしている」の意である。彼の叫び声を聞いた者は皆、各々預言書の「主の日」を思い出して悔い改めて洗礼を受け、「見よ、神の小羊」との声に救い主イエス・キリストを拝した。
 ゼファニア書3:14-18は祝福の讃歌であり、特に3:17は興味深い。前半の「お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる」は15節を繰り返す確信であり、強く優しい救い主の姿である。「主はお前のゆえに喜び楽しみ」はあなたのただ中におられる主があなたの故に喜び楽しんで下さるとは、実に感謝である。「愛によってお前を新たにし」は別訳で「愛のあまりに黙し」。「喜び楽しみ」と「喜びの歌をもって楽しまれる」の間の不思議な沈黙(十字架刑の裁判における主イエスの沈黙)、愛するあまりに声も出ない深き愛である。「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」は別訳で「あなたのことで歓声を上げ小躍りされる」。全てはあなたのただ中に、ど真ん中に居られる主であって、決してあなたの心の片隅に僅かに掃き清められた空間の居候ではない。
 今朝、あなたと神との距離は一体どのくらいか。1メートルか、それ以上に遠く感じるか。もしもそうならば、今すぐ悔い改めて神に立ち帰り、「主よ、私の傍に居て下さい。私から離れないで下さい」「どうぞ主よ、私の心のど真ん中に来て下さい。」と祈り求めよう。天のお父様が御子イエス・キリストの前に、悔い改めを求める先駆者ヨハネを私たちに遣わされたこと覚え、主の降誕に相応しく心を備えよう。

12月5日礼拝説教概要

「最高のプレゼント」 ローマの信徒への手紙8章31~39節
 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(32節)私達人類への最高のプレゼントは、神の大切なその独り子・主イエスが救い主として神の恵みを携えて、地上に降りてきてくださったクリスマスの出来事です。最愛の独り子であるにも関わらず、徹底的にむごたらしい十字架にまで渡されたのは、私達に対する純粋な愛からです。そこまで徹底した愛を注いでくださった神ですから、私達に常に最善以下のものを与える筈はありません。洗礼を受けたという事は、この素晴らしい祝福の約束を神から受け取ったという事です。
 パウロは当時「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か・・・」(35節)と、投獄されたり、死に直面しましたが「わたし達を愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(37節)全てのものがキリストによって与えられており、神の愛は圧倒的な勝利で勝ち得て余りある・多額のおつりがあるという、神の愛の勝利の中に入れられたのです。彼は困難な中で自分が闘うのではなく、キリストの愛の勝利の元に静かに身を置きました。神は「誰でも私のもとに来なさい。あなたの為に十字架に架かり、全てにおいて余りある勝利を得ているから大丈夫。」と憐れみをもって招いておられます。神の愛から引き離すのは、結局置かれている状況でもなく、人でもなく、そのような状況の中、自分自身で闘おうとする心だと、パウロは自分の経験を通して言います。
 「偉大なキリスト者になりなさい」と神は仰せられません。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしの為に命を失う者はかえってそれを得るのである」(マタイ10:39)自分を無にした時、十字架にお架かりになり復活されたキリストが私の内で偉大となり、パウロの如くにキリストの愛から誰も引き離す事ができない事を確信する私達です。

11月28日礼拝説教概要

「暗闇から光の中へ」 マタイによる福音書25章1~13節
 「実にすべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました・・・イエス・キリストの栄光の現れを待ち臨むように教えています。」(テトス2:11~13)私達の命はこの暗闇に呑み込まれるようなものではなく、光の中に招き入れられる為に主イエスはこの世にご降誕されました。このキリスト・イエスの再びの到来をクリスマスのこの時、願い求めて行きたいものです。しかし耐え切れず気力も萎えて、この闇に呑み込まれてしまいそうになる弱い私達です。誰もがこの暗闇の中で耐え忍んで待ち望む自信などありません。神は「暗闇に耐えて気力を振り絞って生き抜け」とはおっしゃいません。闇の中を生き抜くのは頑強な人ではなく、暗闇の中で一筋の光を信じ神に繋がっている人、神を信じる人です。
 本日の箇所には10人の乙女達があまりにも花婿=キリストの到着が遅いので眠ってしまった所、突然花婿がやって来ました。5人の乙女は準備がなかった為に花婿を迎える事ができず、神に見放されてしまった譬え話が記されています。「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)と、信仰は目覚めていないと神を見失ってしまう、と忠告しています。
 主イエスは十字架にお架かりになる前日、暗闇に呑み込まれそうになりゲッセマネの園で、苦痛を切実に訴え御自身の思いを神の元に投げ出されました。その時、天の御使いが現れて力付けられ、祈りが終わって全ての準備が整えられました。一方弟子達は眠り込み、祈りの準備はでず、神に目を向けている事ができませんでした。主イエスですら祈らざるを得なかったのですから私達は尚更の事です。この世は暗く、人生は厳しいから神に目を向けて祈り、礼拝し続けて、暗闇の中に踏み留まり、闇の中で輝く主イエスと出逢いながら朝を待つのです。神は祈る者・礼拝をお献げする者に「わたしはお前たちを知らない」(12節)とは決しておっしゃいません。朝を待つ人間として生きる事が信仰者の歩みです。