「祝福がすべてを忘れさせる」 創世記41章37~57節
ヨセフは苦難の中、神に才能を引き出され、エジプトの高官となり結婚し子供が与えられ、長男をマナセ=忘れさせると名付けました。又、「神は悩みの地でわたしに子孫を増やしてくださった」(52節)と、これまでの悪夢のような苦労の連続の生涯は、全て神の導きであり神が様々な苦しい思いを忘れさせてくださった、と振り返っています。
「忘れさせる」とは水に流してなかった事にするというのではなく、苦労を全て神が用いて下さり祝福の世界に導いてくださった、という事です。他人によって苦しめられた記憶を自分の内に貯め込むと人間関係は崩れていきます。人が自分に何をしたかと恨むのではなく、神が私にしてくださった事を感謝する生き方をヨセフは示しています。過去の傷は神の祝福によってのみ忘れさせて頂けます。神こそ人生の解決者です。神は独り子をお与えになったほどに、私達を強く愛しておりますから、ヨセフの如くに地獄に突き落とされるような事があっても、神を神として仰いでいる限り必ずそこに祝福はあります。
人が生きるにあたって主体を何処に置いているかが、その人を形成させていきます。ヨセフは徹頭徹尾神が主体の人生でした。父親の元で溺愛され守られた環境にいたら、神が共におられる事を知りえなかったでしょう。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブル12:11)今の苦難と未来の栄光は切ってもきれない関係です。人生は悩みの時があり、祝福の時があるのではなく、悩みの最中にも祝福はあります。悩みの地で得たものが人を豊かにさせていきますから、悩みなしに祝福は頂けません。神を信じる者はこの辛い地の中に神が共にいてくださる人生を感謝して、当座の「今」と永遠の「未来」という二つの時を同時に見つめつつ、どのような日も神から与えられた日として踏みしめていきます。
月: 2010年7月
7月18日礼拝説教概要
「今、この舞台を生きる」 創世記39章1~23節
本日の箇所は波乱万丈の数奇な人生を生き抜く、ヨセフの確固たる信仰を証しています。ヨセフは主人の妻の誘惑に断固と闘ったが為に逆恨みされ、欺かれ陥れられる人生を歩まされました(12~20節)。これまでも兄達や複数の力によって陥れられるものでしたが、主が共におられる事を信じたからこそ悪意に反撃したり、投げ出す事もしませんでした。ヨセフの人生は「主がおられた」(2.3,21,23節)と簡潔に記されています。伝道者パウロは「…なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのか。むしろ奪われるままでいないのか。」(Ⅰコリ6:6)と、相手を攻撃せず騙されたままでいなさい、と語っています。ヨセフは主が共におられる人生を就き通した故に、人々の悪意からも全く自由でした。攻撃は不安の現れです。彼は神が共にいらしてくださる事を信じていましたから不安に陥りませんでした。
神が共におられるという事は
①あらゆる不公正に耐える力を与えられ
②縛り付けられていた状況から解放され
③悪い方向にころがっても復讐心によって支配されない
という事です。
主イエスの廻りにも多くの悪意がありましたが、それをも全て受け入れ、父なる神が共におられる事に委ね、救いの御業を達成されました。
「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう・・」(詩編139:7~8)と、地獄のような状況にあったとしても神がおられないどん底はないと、信じる歩みが信仰者の歩みです。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(マルコ12:26~27)と、主イエスは言われます。私はあなたの現実を共に行き道を開く為に、この場に共にいるから今、この時を生きよ、と支えておられます。人生は幸せな大舞台が用意されているのではなく、今の試練のこの場があなたの生きる舞台なのだ、と言われます。本物の信仰とは試練の舞台を通って信仰が強くなるのではなく、試練を生き抜く中で救い主が共にいて下さる事を益々深く知り、置かれたその場で救い主を見出して感動し、感謝する事です。
7月11日礼拝説教概要
「タマルの信仰によりて」 創世記38章6~27節
38章のユダ物語はヨセフ物語に挟まれている。この後、北イスラエル王国の10部族は消滅したが、南ユダ王国の2部族、ユダ族とヨセフの子孫ベニヤミン族はバビロンから帰還しイスラエルを再建した。
今朝、私たちはユダヤ人の「正しさ」の概念を通して聖書理解を深めたい。
私たちは「正しさ」を「ある共通基準」に照らして判定するが、ユダヤ人は『両者のどちらの方が、相手に対してより誠実であるか』で「正しさ」を判断する(26節)。
ユダの息子たちは、神が殺さねばならないほど「悪」だった(6節~10節)が、ユダは不信仰で霊的な目も曇っていた(11節)。ユダが我が子可愛さでタマルを長い年月騙し続けたことは(11~14節)度重なるユダの不誠実だった。しかしタマルは誠実にユダの命令に従い、シェラが成人するまで待ち続けた(12~14節)。ところがタマルはユダの不誠実を知り、娼婦に変装してユダと交わった。この不誠実と思えるタマルの行動は、義父ユダによって夫エルの子供を宿す権利を行使し、イスラエルの民にエル一族の名を残すという聖い動機に基づいていた。
ユダは、タマルとの約束の品々を見て、姦淫の相手が自分だと知り、タマルの誠実とユダ自身の不誠実を告白した(26節)。エルとオナンの個人の死は、部族または氏族の絶滅を象徴したが、タマルの信仰がユダ族を存続させたのである。
ヘブル語の「正しい(ツェダカー)」とは「義とする」「救い」「恵の御業」「恵み」の意。タマルの産んだ子ペレツ(出し抜き)とは「破れ目」のこと。罪多き人間の裂け目を塞いで下さる唯一のお方、主イエス・キリストの系図に、タマルの名が記されている(マタ1:3)。
神は常に私たちに誠実で、主の十字架の贖いによって「救い」を与えて下さった。パウロが「義人はいない、一人もいない」と記したように、私たちは弱いけれども、神の御愛に応え、悔い改めて神に立ち帰り、タマルのように誠実で従順な信仰の道を歩み、神に愛される神の子、天の御国を受け継ぐ者とされましょう。
7月4日礼拝説教概要
「人の手から神の御手に」 創世記37章12~36節
ヨセフは父親に溺愛されていた為に普段から兄達に妬まれていましたが、ヨセフが将来兄達を支配するという夢=神の啓示を見た事によって益々憎しみが募りヨセフを亡きものにしようとしました。兄達はヨセフの夢が真に神のご計画であったとしても、自分達の力と思惑によって、神の計画は曲げる事ができると考えたのでしょう。兄達は策略を練りましたが、最初から思いもよらないような方向に次々進み、遂には自分達の手の届かない方向へ発展していきました。
まず弟のルベン、ユダによって殺す計画は阻止され、ミディアン人の商人からイシュマエル人に売られエジプトに連れて行かれました。ヨセフの人生は、まるで人の手によって将棋の駒のように動かされ翻弄されるように見えます。しかし、廻りの人々の悪意や策略に操られたのではなく、神はそのような状況をも貫いて働かれ、又、それさえをも用いて道を開いてくださいました。人の思いが事を動かすのではなく神の摂理が全てを動かす事を示しています。主イエスの歩まれた受難の道を思い起こしても、人々の策略によって十字架に架けられたように見えますが、人間の死の滅びから永遠の命を与える為に成された神の摂理の中で主イエスはその道を歩まれ、大いなる救いの御業が起こりました。
順風の中、前進していると喜んでいる時よりも、困難な状況で前に進めないと悩んでいる時にこそ神の摂理が為されており、神の大きな御業が進んでいる時です。私達の人生は混沌の中で人々に引っ張られているのではなく、神が救いの糸で私達を手繰りよせてくださり、キリストを見出す事のできる場所に導いてくださっています。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの主によって存在し、私達もこの主によって存在しているのです。」(Ⅰコリ8:6~8)と、私達は神によって存在しているのですから、主権者なる神の御手に導かれながら歩む事に期待して、感謝し喜ぶのです。
6月27日礼拝説教概要
「新田を耕せ」 ホセア書10章12~13節
日本にプロテスタントのキリスト教が伝えられて昨年150周年を祝いましたが、教会の現状は難しいものがあります。私たちに神様が求めておられることは何でしょうか。ホセア書を通して学びましょう。
預言者ホセアは北イスラエル王国の預言者でした。紀元前8世紀北王国はヤロブアムⅡ世の比較的安泰な治世の後、アッスリア帝国の巨大化によって国内は治安が乱れ、より強い国に頼ろうと画策し、神様に頼ることを忘れました。ホセアが「新田を耕せ」と叫んだのは、神様との関係を今一度新しく築け、と言うメッセージでありました。
私たちクリスチャンに対して神様は同じように「新田を耕せ」と呼びかけておられるのではないでしょうか?それは神様の働かれる場所を新しく開拓し、広げることでもあります。
私は今、山形県の新庄に住んでいます。新庄新生教会の協力牧師として娘の家庭の助け手として働き始めましたが、み言葉を語る使命は閉ざされていました。どこかにその道がないものかと祈っているとき、最上の開拓伝道をしている韓国人の伝道師から、「日本語で説教をお願いします」と声をかけられ、毎週そちらでご用をするようになりました。み言葉を語ることはその働きを共に負うことです。会堂のない教会で新しい会堂を与えてくださいと祈り、ついに6月、ユニットハウスの会堂が与えられました。
「新田を耕す」とは「恵みの業をもたらす種」を蒔くこと(12節b)すなわち「信仰」を働かせることです。榎本栄次牧師(榎本保郎師の弟さん)は北海道で開拓伝道を始められた時、アルバイトなし、福音のみによって、家族を飢えさせず、の三原則によって教会を建てあげられたと語られていました。神様のみを信じて立つことが求められているのです。
伝道は神の愛を実践することです。(12節c)一人の悩める人のために真実をもって仕えること、み言葉の真理を伝えることです。