「神の福音」 マルコによる福音書1章14~15節
主イエスが伝道活動を開始されて、その第1声は<「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」>でした。これが、主イエスの活動の最初のお言葉でしたが、ここに主イエスのご生涯の全てが集約されています。
「時は満ちた」とは、神の時が到来した、ということです。約束の時・約束の成就の時、人々が待ち焦がれていた時です。そのことを、主イエスは「神の国の到来」を意味する、と言われます。神の国の到来は、人々の待ち焦がれていたことでした。「神の国」とは、神のご支配のことであり、神のみ心が行われることだからです。人間は、神以外のものに支配されることで、多くの苦しみを負わされます。しかし、主イエスは、喜ばしく、高らかに、神の国の到来を告げるのです。
そこで、主イエスは言われます。「悔い改めよ」と。悔い改めをもって、神の国を受け入れよ、と言うのです。神の国到来の告知は、悔い改めを要求します。それは、神に背き、背を向けていた者たちを、神の許へと招くことだからです。神の国・神のご支配は、物理的な力による支配ではありません。金銭欲や名誉欲をくすぐって支配するものでもありません。罪の赦しによるご支配です。私たち人間は、神以外のものに支配されて苦しむのですが、その根源は私たちの罪にあります。私たちは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを受けて、神のもの(所有)とされました。神のご支配・神の国に受け入れられたのです。
このように、神の国到来の告知は福音(喜ばしい知らせ)に他なりません。マルコ福音書はここで、福音を「神の福音」と表記します。この主イエスの伝道第1声全体を指して「神の福音」と言うのです。福音は神に由来するものであり、神のためのものであるということです。福音の中心は人間ではなく、神ご自身であるということです。神が神であられることに福音の本質があります。そこに人間の幸いもあるのです。
月: 2010年6月
6月13日 礼拝説教概要
「子供たちへの祝福」 マルコによる福音書10章13~16節
人は我が子の幸福を切に願う。まして父なる神は、子なる私たちと私たちの愛する子供たちを大いに祝福したいと願っておられる。イスラエルでは創世記48:14-16に倣って、教師が子供の頭に手を置き全生涯と子々孫々に亘る祝福をしてきた。イエスの周りにも多くの人々が自分の子供を連れて来たが、弟子たちが人々を叱ったのでイエスは憤られた(13節)。イエスが「憤られた」のは福音書中ここだけ。当時の子供の生存率は極めて低く、ルカ18:15-17には「乳飲み子までも連れて来た」と記されている。私たちは「子供」に純真無垢・単純・絶対的信頼・利己的でない・謙遜などのイメージを持つが、宗教的には律法を記憶・理解・遵守できない者、宗教的人権を全く認められない「小さな者」である。ユダヤ社会の「子供」とは「弱く、貧しく、頼りなく、無きに等しい存在、全く功績や誇るものがないこと」である。
14節は子供たちや子供たちのような者こそ主イエスのところに来て祝福され、神の国を所有し、神の国に入る者とされるという約束である。教会では何人たりとも求道者を妨げてはならず、偏見や蔑視や差別、或いは牧師の多忙も理由にならない。またヨハネ3:35では「新しく生まれること」が神の国に入る条件だと示された。新しく生まれるとは乳飲み子のようになること。15節の「神の国を受け入れる」とは、子供のように「弱く、貧しく、頼りなく、無きに等しい存在、自分には全く功績や誇るものがないこと」を認め、そのような価値観を要求する神の国を受け入れることである。しかしニコデモには宗教的指導者の地位・名誉・実績、教師の教養・プライドがあり、そのままでは神の国には入れなかった。
今日、イエスは私たちに子供のようになれと言われる。弱く、価値なく、頼りなく、貧しく、功績も誇りも何にもないことを認めて、神様だけを信頼せよと言われる。私たちが主イエスをキリストと信じ、祝福を祈り求めて御前に近付く時、主は私たちを抱き上げ、大いなる恵みを以て祝福し、神の国に入る者として下さる。感謝してこれを受け、神が愛し私たちの愛する子供たちに信仰を伝え、神の子の役割を果たそう。ご覧なさい、主の御手は私たちの頭上に置かれている。
6月6日 礼拝説教概要
「あとで分かる時が来る」 創世記37章1~11節
これまでのテーマは「祝福」でしたが、ヨセフ物語は「人間の混乱と神の摂理」です。神は人間の様々な混乱した状況にも関わらず、それを貫いて神の大きな計画を進められる、という信仰が中心的なものです。
ヨセフは父親ヤコブに溺愛され、日頃から兄達に憎まれていましたが、将来は、兄弟達・両親がヨセフに平伏す、という夢の話をしたので、益々恨みが募っていきました(1~10節)。聖書には夢がよく出てきますが、神の啓示を現すもの、又、古代人にとっては重要な事を示していると信じられていました。主イエスの父ヨセフも夢の中で、ヘロデが2歳以下の子供を暗殺しようとしている事を告げられたので、エジプトに逃れて産まれたばかりの主イエスは犠牲にならずに助け出されました。
ここに登場するヨセフも、この夢は神が見せてくださった自分の生涯を示していると信じましたが、兄達は自分の感情が先立ち納得いかずに憎んだのです。しかし父親は「心に留めました」(11節)。この時理解した訳ではなく、何か意味があり必ず神の御心があると信じ、今、納得できなくとも後で分かる時が来ると、信仰によって心に留めたのです。御心があるとは、受け入れ難いような理不尽な事にもそこを貫いている神のご計画を求めていく事です。この後ヨセフの人生は奴隷に売られ、騙されたり不条理な人生を歩む事になりますが、彼を通して神の壮大な計画が進められていきます。主イエスも暗殺計画から助け出されましたが、神の怒りを受け十字架に架けられる、という理不尽な道を辿りましたが、そこに神の大きな救いがあった事を、人々は後で知る事になりました。
私達の廻りにもこれは許せない・分からない・納得できない事がありますが「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。」(イザヤ55:8)と、ありますように自分の経験や感情で結論を出すのではなく、神の御心が何なのか求めていくのが信仰者の歩みです。意味のある道を今、歩んでいます。
5月30日 礼拝説教概要
「祈り合う仲間」 ヤコブの手紙5章12~24節
苦しむ人に対して「祈るがよい」、病気の人に向かって「祈ってもらうがよい」、喜んでいる人に「賛美するがよい」と勧めています(13~14節)。救い主イエス・キリストは十字架にお架かりになる直前まで「目を覚まして祈っていなさい」と、弟子達に祈りによって神との関係を持ち続ける事を教えておりました。
聖書に登場し神から豊かな祝福を頂いた人々は順調に階段を登るような人生を歩んだのではなく、苦難の中祈りによって勝利を得た人々です。特別な英雄ではなく私達と同じような人で、数百名相手にたった一人で祈りの勝負を挑み、勝利した旧約時代の預言者エリヤが例に挙げられています。彼の力の秘訣は祈りでした。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、3年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました」(17~18節)。この出来事は列王記上18章に記されていますが、相反する二つのタイプの人間模様を見る事ができます(41~45節)。雨が降る兆候が現れると早々と祈りの手を下し飲み食いするために山に上る人々と、一人で雨が降る迄=祈りが実現する迄、膝の間に顔を入れて地に伏して祈るエリヤの姿です。エリヤは全て見えるものに目を奪われる事なく、何ごとが起きるかを見聞きする事ができないように祈りに集中し、祈りに祈った姿です。
祈りとはエリヤの如く神を信じ切り「信じる通りになる」と、とことん求め続けていく大胆さです。神は今日も生きて働いております。例え落胆するような状況であろうとも、祈りの答えが遅れようとも、それも恵みの一部分だと信じて行くことが信仰です。神は私達の全てをご存知で、祈り求めてすがっていく事を喜んで待っておられます。祈りの結果に一喜一憂するのではなく、先ず神をつかみ続け、手離す事なくすがっていく時に結果は自ずとついてくるものです。