2月21日 礼拝説教概要

「心のオアシス」 詩編23編1~6節
 詩編23編は信頼の歌であり、そのメッセージは一言でいえば「神を信頼しなさい」と言う事です。神は御自身を恵み深き羊飼いとして啓示しておられます。羊ほど無力で愚かな動物はいない。近視眼で目先の事しか見えずすぐに道に迷う。自分で水辺や牧草を見つけることもできない。身を守る武器もなくすぐに野獣に食べられてしまう。そんな無力で愚かな羊であっても牧者なる神に徹底的に依り頼んでいくならば安全で祝福された生活を送ることができます。自分は賢く能力があるので神の導きや助けなど必要ないと高ぶることが危険です。良い羊飼いである主イエスは愛する羊を守り祝福するためにその命を投げ出して下さいました。
 私たちと神との正しい関係がその罪や汚れによって損なわれると神のいのちと祝福の流れが止められてしまいます。しかし、神は私たちの罪と汚れをその十字架の贖いによって赦しきよめ、もう一度神との関係を新しくして下さり私たちの魂を生き返らせて下さいます。私たちは毎聖日ごとに主の十字架を仰いでその汚れをきよめられ、その復活のいのちを頂いて新しく一週間をスタートすることができるのです。
 「人生において最も幸いなことは主が共にいることである」とはウエスレーの辞世の言葉でした。私たちの人生は災いの日もあれば幸いの日もある。次年度もどんな困難や試練、病やトラブルに襲われるかわからない。しかし確かなことはどのような困難な場所を通過しようとも主が常に一緒にいて私たちを助け支えて下さるということであります。私たちを愛し支えて下さる人たちもやがては去っていかねばならない。しかし、主は最後まで一緒に人生の旅路を歩んで下さいます。わたしは決してあなたを見捨てず見放すこともしないと主は言われる。これほどうれしいことはない。人生の終わりに私たちが死の河を渡る時主は私たちの手を握って一緒に渡って下さいます。ですから天国への希望に満ち、平安と喜びに溢れて私たちは死の河を乗り越えていくことができるのです。

2月14日 礼拝説教概要

「人を癒す御言葉」 詩編107編19~43節
1.主は御言葉をもって癒されるお方です。私達は霊的存在として創造されましたから、霊的な飢え渇きを抱くのは当然のことです。もし霊的な飢え渇きを感じていないとするならば、肉体は生きていても霊的には生ける屍のような状態になっているのかもしれません。「無知であり」(17)とありますが、新改訳聖書では「愚か者」となっております。どうやらこの人物は罪に支配され、その犯した罪故に死の門近くまで来て苦しんでいるようです。しかしそのような彼にとって救いに至る大きな転換点がありました。それは苦難の中から主に救いを求めることでした。そのような彼に対して主がなされたのは、御言葉をもって癒すということでした。故にこの病は単なる肉体上の病ではなく、霊的な病に陥っていることが分かります。そのために、主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。」(20)、と作者は賛美を献げます。
2.「彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け」(26)とありますので、彼らは苦難を通して人間の本質的な部分、深淵の部分で取り扱いを受けたようです。その結果、「主の御業を、驚くべき御業を見た」(24)と告白します。何故、主は嵐を起こされたのか、それは苦難によって魂が溶けることを願い、このような御業をなされたのです。「どのような知恵も呑み込まれてしまった。」(27)とあるように、苦難を通らされることを通して、この世の知恵には何ら救いはない、主のみが救いであることを悟らせようとされたのです。苦難の中で酔っ払いのようによろめき、揺らいでしまったこの魂は、この世の知恵に救いを求めず、主に助けを求めて叫ぶと、波は静まり、彼は望みの港へと導かれて行きました。信仰に生きるとは知識や理解のレベルではなく、経験できる世界における生き様であると言えます。主は真の救いを与えるために、否救いの源である御自身を求めさせるために、苦難をお与えになられるのです。それは見せかけの救いではなく、真の救いを与えるためです。

2月7日 礼拝説教概要

「天の露を仰ぐ人生」 創世記27章18~40節
 人生には二つの道の選択があります。一つは神の元で全てを神から与えて頂き人生の収穫を頂く道(27~29節)、もう一方は神から離れて自分で剣を持って戦って行く人生です(39~40節)。
 イサクは年を重ねて死を自覚し、当時の慣習により跡継ぎを呼んで双子の兄エソウに祝福を与えようとしていましたが、弟のヤコブは以前兄を騙したように今度は父と兄を騙してまでも、神からの祝福を奪い取ってしまいました。ヤコブの人生のテーマは大地が天から露を頂いて収穫を得るように、何がなくとも天を仰いで神から露=恵みを受ける事でした(27~29節)。2度も兄を騙し更に年老いた父親をも騙してまでも、神からの祝福を奪うというヤコブの生き方は、何とひどいと思わされます。神学者も様々な見解を出していますが結局答えは出ません。しかしヤコブに関して記されている事は、神に対し人に対して顔向けできないような罪人にも関わらず神を求め続け、それに対して神は祝福されたという事です。
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ロマ10:13)と主イエスは良い行いをする人、誰から見ても善人が救われる、というのではなく、只「主の名を呼び求める者」が救われると語っております。主イエスが私達の罪の為に犠牲となって架かってくださった十字架は、人間の深く重い罪をも打ち砕き、神を呼び求める者を救ってくださいます。ヤコブの如く人を騙し、罪を犯し続ける私達人間を神は今日も憐れみの中で待っておられます。神のよって造られた人間だけが、神の息を吹きかけられ(創2:7)、日々神の創造の業を発見し、驚き、賛美する事ができる唯一の被造物ですから神を仰ぎ見て、祝福を求めるのが人間本来の姿ではないではないでしょうか。神を仰ぐ人生の中で罪人は清められ育てられていきます。人生の収穫は自力では得る事はできません。天の露を頂きながら永遠の命に繋がる命を求めて参りましょう。

1月31日 礼拝説教概要

「自分の井戸を掘る」 創世記26章15~25節
 イサクは父アブラハムと同じように寄留者として他国に住み、そこでイサクは何度も井戸を掘り当てますが、横やりが入り邪魔されました(20~21節)。何か特別な理由がある訳ではなく根本的にあるのは敵意で、それらの事を通して色々な悲しみ、人間の中にある醜さを知りました。所謂人間の悲哀を味わったのですが、昔も今も変わらないものです。
 人に理解されず敵意を表された時、平安を失い怒りに変わるものです。気が合う人・理解してくれる人と生きていけるなら幸いですが、むしろ無理解や逆境の中で忍耐を持って生きる事を通して人は育てられると、主イエスは種蒔きの譬で教えております。いくら良い地に落ちた良い種でも試練に遭うと身を引いてしまう人、耐え忍ぶ事なしに実を結ぶ事はできないと記されています(ルカ8:11~15)。忍耐とは正しい目的に向かってそれを獲得しよう、という希望と熱意の故に困難な事情を克服し自らの心を爆発から守る事だと言われています。芸術等の道は修業を積んだ分だけ身に付きますが、信仰の道は過去に何十年続けても、困難な時に信仰が破けたらそこまでの生涯は神から絶縁されてしまいます。
 イサクは立ち止まって敵と争うのではなく、忍耐をもって自分の井戸を求めて掘り続けてついに神が与えてくださった祝福の広い場所に行き着きました(創26:22~25)。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)と主イエスが語っておられるように、忍耐と我慢で終わるのではありません。試練の只中尚、前に向かって掘り続ける労苦の中で人は変えられていき、神の恵みの世界に到達します。その日に続く労苦を今、担っています。主イエスは裏切られ、ののしられ、十字架の死を強いられても息を引き取るまで私達への愛は変わりませんでした。この世の全ての敵意も悪意も太刀打ちできない主イエスの十字架が私達を守ってくださっています。この事を感謝し信じているから弱い私達は神が与えてくださった道で忍耐を持って自分の井戸を掘り続けていけるのです。