10月11日 礼拝説教概要

「夕ありて朝あり」 創世記1章1~5節 マタイによる福音書11章28~30
 「夕べがあり朝があった」(創世記1:5)と記されていますが、これはユダヤ人の大きな人生感でした。この箇所が記されたのはバビロン捕囚という困難な「地は混沌で闇は深淵の面のような」(1:2)時代で、ユダヤ人達が全てを失う厳しい思いで語っていると思われます。しかし、雌鶏が卵を孵化する時のようなぬくもりの中にいるから、神の支えによって立ちあがってほしいと、繰り返し語っています。
 どんなに辛い暗闇人生であろうと必ず朝が来るから、信仰を持って奮い立って歩んでほしいという願いです。しかし、自分を奮い立たせて頑張っても限界があります。そこで主イエスは重荷を負っている人は誰でも、柔和で謙遜な私の元に来なさいと招いておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう・・・そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28~30) 
 私達の人生、疲れて重荷を負って大変なのにも関わらず尚、重荷を負わされるとは何故と思いますが、だからこそ十字架のキリストが贖い守って下さっています。福音は力です。その根拠は主イエスが最後の晩餐の時に御自身が私達に仕える為に弟子達の足を自ら洗ってくださった事です。
 
 私達に主イエスが仕える為に跪いて招いてくださっているのが週ごとの礼拝です。「一週間よく頑張った」と、十字架に架かって甦ってくださった主イエスが全てをご存知で、自ら跪き私達を洗い潔めて下さいます。
 思うようにならないと駄目と諦めてしまいますが、礼拝毎に私達を立ち上がらせてくださっています。夕ありて朝がきます。主イエスが共にいてくださるから大丈夫です。
 朝は素晴らしいと希望を持って主イエスと共に歩む時、必ず祝福があります。居る場所が問題ではありません。主イエスが共にいてくださるのが私達にとって最高の宝です。

10月4日 礼拝説教概要

「不信を砕く神」 創世記18章1~15節
 アブラムと妻のサライは神から祝福の担い手として、アブラハム(意味=多くの国民の父)サラ(意味=女王)と、改名して新しい歩みを始めました。来年の今頃男の子が生まれると、今迄にはない具体的な約束を頂きましたが、依然として子供が与えられないサラは年齢的な状況等から絶望の笑いをしました。神は「なぜ笑ったのか、なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能な事があるだろうか」(13節)と、サラの不信仰を指摘されました。
 神から頂く祝福の約束を現実の困難や疑いから、自ら不可能と決めつけその道を閉ざしてしまうのが、サラのみならず誰もが持っている人間の弱さです。神の業・約束を疑う時、自分を神から切り離してしまい罪に陥ります。
 「神にできない事は何一つない」という声を信じたマリアは主イエスを身ごもりました。廻りの人が不可能と判断し笑おうが、神は約束された事を必ず成し遂げるお方です。「私にできなくとも、神にはできない事は何一つない」と信じ切る事が信仰です。
 重荷・困難がある時にこそ忍耐を持って信じ続けるなら必ず約束は実現されます。それ迄が正に試練ですが、神は私達を信頼しておられるから訓練として試練を与えられます。どんなに私達が不真実であっても神の真実は変わる事はなく、私達に対する約束を神は断念したり放棄されたりはなさいません。
 「私達が誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)とありますように、神の真実の中に既に入れられ、見出された人間として祝福の中に生かされている私達です。不信仰によって救われている命を忘れないように、自分を信じるのではなく、神を信じ委ねて日々感謝をお献げしたいものです。

9月27日 礼拝説教概要

「星の数の報い」 創世記15章1~21節 
 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)とありますが、神のご計画に信頼し委ねるには多くの不安がありました。アブラムを祝福し子孫に大いなる恵みを与える、という神の約束は子供が与えられないアブラムにとって信じ難い事になっていました。
 そのような時に神は「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(1節)と呼びかけましたが、神への不信は募り「わたしに何をしてはくださるのか?・・・」(2節)と、不安をぶつけました。古代イスラエルでは男子の血統がない場合は奴隷が家を継ぐという習慣だったので焦りもあったのでしょう(2節)。
 神の堅固な盾の守りの中に祝福の約束を頂いているにも関わらず、後継者が与えられない悩みに押し潰されていたアブラムです。不安と焦りに支配されている彼を神は外に連れ出して、神が造られた数えきれない星を見せ、偉大な御業をなす神に心を向けさせたのです(5節)。
 自分の殻に閉じこもっている限り不安や悩みは重くのしかかり卑屈になるばかりです。天地創造された偉大なる神に出逢う事以外、苦しみや深い不安からは解放されません。その為に神は常に偉大なる印を見せて下さり、私達の頑なな心を解放し救い出して下さいますが、時が経つと又、自分の殻に閉じこもって悩む弱く危うい者です。
 「しるしを見て多くの人がイエスの名を信じた。しかしイエスご自身は彼らを信用されなかった。・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる。」(ヨハネ2:23~25)と、あります。
 故に繰り返し礼拝毎に主イエスの十字架と復活の印を見せて頂き、祝福を確認させて頂く私達です。
 
 アブラムが外に連れ出されたように、自分の殻から踏み出して十字架を見上げた時、星の数の報いが待っています。神の恵みの広さ、長さ、高さを見上げて頂いた祝福の領域をどんどん広げていきたいものです(イザヤ54:2)。