神癒 究極の癒し マルコ2章1~12節
中風の病で患っている人を4人の人達が主イエスに癒して頂こうと運んできましたが、家の中は人だかりで入る事ができませんでした。彼らは「主イエスなら癒してくださる」という絶対的な信頼から屋根に穴をあけて、部屋の中につり下ろすという非常手段をとりました。
信仰とは何が何でも、人をかき分けてでも、主イエスの元に身を置く事です。主イエスはこのような揺るぎない信仰をご覧になって応えてくださいました。しかし直ちに病を癒されたのではなく「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)でした。これは大変貴い究極の癒しのお言葉です。
私達は病を患う前に、悲しい事ですが、誰もが罪を負った人間です。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とパウロが語っている通り、健康そうに見えますが人間は根本的に罪という完治しない病にかかっています。例え目の前の病が癒されたとしても、誰もがいつかは死を迎えなくてはなりません。罪の赦しのない所に本当の命と祝福はありません。
主イエスの十字架が我が罪の為と信じる事ができない人は滅びの死に至りますが、信仰によって救われた人は誰でも、恩恵によって、肉体の死を超えて天国での永遠の命を頂く事ができます。「あなたの罪は赦される」と、主イエスの権限によって保証されています。「あなたの人生は底なし沼ではなく永遠の命の地盤があるから、死も病も何事も恐れずにこの私を信じて歩みなさい」といつも語りかけてくださいます。
病が癒されたいと思いながらも残念ながら天国に召される方も多くおられます。しかし、主イエスを信じる人はその信仰において相応しい死を遂げられます。永遠の祝福の命に確信を持っておりますから、希望を胸に凱旋されるのです。
私達はいつか人生の終止符を打ちますが、「滅び去るものと滅び去らないもの、一時的なものと永遠のもの」を区別する事ができます。私達は滅びるこの世を土台にせず、決して滅び去らない永遠の命を土台として生かされている事に毎日、毎日感謝しましょう。滅び去らない永遠の命を頂く事が究極の癒しです。これは全ての人に与えられます。
月: 2009年6月
6月14日 礼拝説教概要
聖化 ガラテヤの信徒への手紙 2:15~21
⑴パウロが手紙を送ったガラテヤの教会は、「福音とは何か」ということが問われておりました。何故ならば、キリストを信じるだけでは駄目で、割礼を受け、律法を守らなければならないとする、律法的な偽教師たちに惑わされて、再び空しい律法的な生活に戻ってしまった人々がいたからです。
本日はホーリネス信仰の中の四重の福音の中の「聖化」について語らさせていただきますが、「聖化」を語るとき、どうしても「新生」についても触れなければなりません。なぜならば、どちらも自分自身を神に明け渡すことなくして語る事ができないからです。
旧約時代、羊や牛などの動物が罪の贖いの犠牲として献げられていたことは、私たちは十分理解しております。しかしそのことを具体的に我が身のこととして、受け止めたらどうでしょうか。犠牲の動物たちが、あなたの罪のために首を切られ、血を流し苦しみ、悲しみの眼差しをもって殺されていく、その苦しみと悲しみの眼差しをもって身代わりとなって殺されていく贖いの動物をじっと見つめ、自分の罪はこれほど深刻なものであることを覚えつつ献げるのが贖いです。
仮にその犠牲が我が子であったとするならば、どうでしょうか。その苦悩を説明するまでもありません。「福音」とは十字架の贖いの福音です。
⑵信仰に生きる者とは、過去と決別し、前に向かって前進する者のことを言います。ある牧師は「信仰は四つの言葉で言い表す事が出来る」と語りました。Jesus died for me「イエスが、私の、ために、死んだ」これに尽きると言うのです。この信仰に立つとき、「きよめ」の信仰に立つということは、如何なることであるか、と説明する必要はないはずです。
罪人である私のために十字架上に命を献げてくださったお方に応えていく、そして来るべき再臨の主イエス・キリストをお迎えする、そこにおのずときよめに生きる者の道が見えてきます。
6月7日 礼拝説教概要
新生 「灰の代わりに頭の飾りを」 ローマの信徒への手紙6:15~23 イザヤ書61:3・10~11
人は罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷かどちらかであると言います。
私達の内には様々な欲望があり、生まれながらの人間は皆その思いに引きずられている罪の奴隷であるといいます。目の前の楽しみ、一瞬の喜びは知っていますがそこからは何も見出す事もなく実りもなく、人には言えないような恥ずかしい事ばかりです(ロマ6:21)。
このような人間を神は放っておくわけがありません。神の一方的な憐みと愛によって、罪人を救う為に愛する御子イエス・キリストを十字架にまでつけてくださいました。イエス・キリストを救い主と信じる者は誰でも罪から救われて神の者とされ、罪の奴隷から解放されて神の奴隷とされます。暗闇の中から神の光の世界へと移されて、全く新しく生まれ変わった者とされるという事です。
神の奴隷とはこのようにマイナスイメージではなく、この世にはない恵みを指します。しかし、つまずく事もあり、罪に転ぶ事もありますが、光の中に照らされているから誰でも起き上がる事ができます。
ルターという人はキリスト者の生涯は悔い改めの世界である、と述べています。光の中にいるから例え罪を犯したとしても、罪に振り回されて終わりではなく、神の元で悔い改めをしながら人は整えられていくという事です。
神の奴隷へと移された者とは、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:27)との如く、キリストの正しさの衣を着せて頂いています。罪から救われた者はキリストの輝かしい恵みの衣で覆われています。その姿は世界で一番貴く注目を浴びるべき存在で「花婿のよう輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。」と記されています(イザヤ6:10)。かつては灰をかぶるっているような姿でしたが、今や輝く者とされているから樹齢を重ねる樫の木のように胸を張って歩んで良いのです(イザヤ6:3)。人生の嵐にもまれ、季節をめぐり、年を重ね、それでも私達は救いの衣を着せて頂いていますから、神の栄光を現していきたいものです。
5月31日 礼拝説教概要
「もう一度心燃え立たせる」 テモテへの手紙二1:3~14章節
若い伝道者テモテがエペソの教会(ギリシャ圏)の牧師として立てられましたが、その教会は異教的な接点が多く様々な問題を抱えており、希望に満ちていた彼は苦境に立たされ、自信も力も失いかけていました。
しかし彼が慕い続けた大先輩のパウロの指導により、もう一度心を燃え立たせて、伝道者として立つ事ができました。パウロは知恵や新たな力を与えたのではなく「あなたに委ねられている良いものを、私達の内にすまわせる聖霊によって守りなさい。」(14節)という助言でした。
失望の中にあると、既にある自分の中の良いものが取り去られたように思ってしまいます。しかし神の真実は変わりませんから、一度与えられた恵みは決して取り去られません。テモテの内にある良いものとは祖母・母から受け継いだ純粋な信仰と情熱です。それを洗礼の時に与えられた聖霊の力によって守りなさいという事です。神から与えられたものを引き上げるには自分の努力ではなく「臆病の霊ではなく、力と思慮分別の霊」である聖霊の力に依り頼む事しかない事をパウロの経験から教えています。
彼自身これから囚われの身となり、命すらどうなるか分からない苦境に立たされていました(使徒20章)。しかし聖霊なる神の力に教会の命、彼自身の命を委ねました。委ねたものを神は必ず守ってくださるという確信からです(12節)。
苦境の時自分が信じられなくなり、自己否定してしまう時があります。しかし例え自分が信じられなくても、神が与えてくださった恵を信じる事はできます。私達に委ねられている良いものを、力と愛と慎みの聖霊の力によって守っていく役割が私達に与えられています。そして私達が神にお任せしたものを神は責任を持って守ってくださいます。「進んで行う気持ちがあれば、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(Ⅱコリ8:12)
聖霊なる神の力を頂き、もう一度心燃え立たせて頂きましょう。
5月24日 礼拝説教概要
「あなたはどこにいるのか」 創世記3章8~21節
本日の箇所は人間の弱さ・本質を現している箇所です。
エバは蛇の巧みな言葉によって神から禁じられていた実を食べてしまいました。
まずエバと蛇の問答を見てみます。神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と言われました。しかし蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、神の言葉を曲げて全面否定して、巧みにエバに問いかけています。エバは神の戒めを正確に答えずに余計な命令を付け加えて「・・・触れてもいけない、死んではいけないから」と答えました。
正しく聴く事、答える事の難しさを見ますが、これは人間の心の中でいつでも繰り返される問答でもあります。ついにエバは禁じられた実を食べてしまい知恵がつき目が開けて、神に向けていた目が自分に向けられ、裸である事に気付いてしまいました。結果、今迄神は絶大なる味方であったのに、神の存在が恐ろしくなり、敵になってしまいました。すると神に対して無防備と思い、神を避けて自分を隠すようになってしまいました。これが罪というものです。
罪とは犯した過ちを指すものではなく、神から逃げる事です。罪によって誰かに追い詰められるのではなく、逃げて言い訳をして何とか正当化しようとして、自分の罪に追い詰められて苦しむのです。
そしてアダムとエバの如く、すぐに破れてしまうような、いちじくの葉で自分を隠そうと必至になってしまいます。
主イエスの弟子ユダは自分の罪を神の前に出す事ができずに、罪に苦しめられ、自分で自分を裁いて滅びの道を選んでしまいました。
私達はそうではありません。イエス・キリストの十字架によって罪赦され、キリストの衣を着せてくださり、「だれでも私のもとに来なさい」と神の元に招いて下さっております。 「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ。あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう」(雅歌6:1) 「どこにいるのか」と赦しの問いかけをしております。
今一度、神の前に出て悔い改め、赦されている事を確信し感謝したいものです。