5月17日 礼拝説教概要

「エデンの園での配慮」 創世記2章15~25節
 神によって造られた人は、生きるための生活空間であるエデンの園が与えられ、そこでの必要な食糧、生きる為の労働、共同体が与えられました。改めて、人は飲み食いして楽しく暮らす事が本来の人間の姿ではない事を思わされます。与えられた労働の中で喜び楽しむ事が許されています。
 エデンの園で神は「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまうから」と言われました。何故? ともするとこの戒めに反発を覚えてしまいますが、神と人との交わりは神からの戒め・命令という事から離れては成り立ちません。しかし人間を縛る為ではなく、神の善意からなる配慮である、という事を心に留めなくてはなりません。
 人は神の似姿として造られたものですが、神の如くに造られたものではありません。何より人は土の塵で造られ壊れやすくもろい者で(2:6)、自分自身をコントロールできないような者です。色々な面で自分自身の限界を感じ、行き詰りを感じる日々にも関わらず、神が結果を出してくださる事を待ち望む事が出来ずに焦って自分で解決しようと苦しんでいる者です。
 ダビデ王は取り返しのつかない罪を犯しましたが、神の御前に出て悔い改めて、その結果を神に委ねました。そして祝福の道が与えられました。一方、主イエスの弟子であるユダも罪を犯しましたが、審判を神に委ねる事をせずに自分でその罪を処理しようと、破滅の道を自分で選んでしまいました。ですので、知識の木から食べると必ず死ぬ、と言われています。
最終的な判断、責任は神の領域ですから人が踏みいれてはなりません。言い換えるなら、神のような100%・完璧さは人には必要はないと言う事です。
 いつも私達は「これでいいのか?」と不安を抱きますが、御心であれば守ってくださり道は開けますし、間違っていれば神が裁き、道は閉ざされます。死ぬ迄完成のない私達だから、全ての答えは神から与えられます。
 神の元に身を置いて足りない者同士が支え合って、与えられた世界を神と共に生き、恵みを受け取る事を忘れないようにしたいものです。

5月10日 礼拝説教概要

「沈黙して対峙する」 詩編65:1~14 
 信仰に生きる者にとって「沈黙」から学ぶことが非常におおくあります。それも「主の御前に沈黙する」、そのことを通して私たちは本当の自分自身の姿と、無くしてはならない大切なものを見出すことができます。
 歴史神学者の石原謙師は「日本のキリスト者の一番の問題は、依然未熟な点にある」と語っておられました。その理由は明らかに成長していないことを語っておられる訳ですが、体験的な信仰のなさをも言っているようです。真に神の御前に罪人として立つ経験、真に神に取り扱っていただいた経験、聖書のみ言が単なる言葉ではなく、自分自身に向けて語られている生ける神の言葉として受け止める体験があまりにも乏しくないか、と言っておられるのです。
ダビデは詩編65編を通して、神は三つの祈りの答えをもって満たされることを歌っております。
①「神は罪を赦してくださる」お方であるということです。
神の御前に沈黙するとき、何が起こるでしょうか。それは畏れです。私達は神の御前にあっては裸同然です。贖い主がおられなければ、とても神の御前に立てるような存在ではありません。
②「歴史を支配しておられる神は、この世の善悪に必ず決着を付けられる」お方です。清算のその時が必ず来ます。
③「神は豊かな収穫を与えて下さる」お方です。それには前提があります。「主を畏れ敬う者」(9)の上に与えられる恵みであるということです。
千人教会を実現した大和カルバリ教会の大川従道牧師は、貧しい牧師家庭に生まれ、修学旅行に行けなかった体験の持ち主です。彼は怒り、お母さんの髪の毛を引っ張りまわしながら、ののしりました。しかしそのお母さんは「お前は修学旅行に行けなかったけれども、いつか世界中を回れる人になれるよ」と語ったそうです。その時は気にも止めなかった従道少年はその後、悔い改めて献身し、他の兄弟と共に一家挙げて主に仕えておられます。
「主の前に沈黙し対峙する」、そこから大いなる恵みを頂くことができるのです。

5月3日 礼拝説教概要 佐々木良子牧師

「創られた者の代表」 創世記1章26~31節  
 人とはいったい何者で、何の為にこの世に存在しているのでしょうか? 一度は疑問に思ったのではないかと思います。私達はこのように生かされていますが、意味なくしてこの世に存在しているのではありません。
神の御心によって人が創造された事が本日の箇所に記されています。
 この地球上には私達以外の動植物が存在していますが、全て神によって造られ、最後に神は人を造られました。神は人に対してのみ「造ろう」という意志を現しています(26節)。これは私達が生きる上で知っておかなくてはならない重要な事です。人は造られた物の単なる一つではない、という事を示しているからです。動植物は唯、造られたままの存在で、人間の為に用意された物の一つにすぎません。
 しかし神は人を創造するにあたって「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26節)と意志を表明しております。これは神御自身の決意として人を自分に似せて、神の似姿として造られた、という事で、聖書で語っている人間観の基本です。
 その意味する所は相手方、パートナーとして造られ、神と対話できる存在である、という事です。人間だけが神と向き合う事ができる者で、呼べば応える存在として人を創造されました。
 神はご自分の業を知り、神の大きさ・深さに感謝し讃美する者を求めています。人はいつの時代も神を求めて歩く動物ではないでしょうか。
 ユダヤ民族は王国が滅亡しバビロンという大国に連行され捕虜生活を強いられ、希望が見えない困難な中、天地創造された神を見上げ、苦しみを乗り越えました。その失望の最中に創世記1章が記され、闇から光を造る神を見て希望が与えられました。人は人生が暗闇の時、人生の結論と思ってしまいますが、結論ではなく、闇の中に光を見せて頂く神との出会いの始まりです。
 偉大な伝道者パウロ語っています。「わたしたちとしては死の宣告を受けたおもいでした。それで自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。・・・わたしたちは神に希望をかけています。」(Ⅱコリ1:8~10)
 造られた者の代表として私達も神を讃美して参りましょう。 

4月26日 礼拝説教概要 佐々木良子牧師

「神の天地創造」 創世記1章1~5節
 「初めに神は天地創造された」(1節)聖書の最初に書かれてあるお言葉です。そしてコヘレト12:1「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあるように、本来人間のあるべき姿は人生の中心を自分に置かず、天地創造された神を中心とせよという、大切なメッセージが込められています。
 神は万物を創造し、更に罪にまみれた私達を救う為に、まどろむ事なく眠る事なく私達を全く新しく創り変えてくださり、今もその御業は続いています。 
 神が天地創造される前は、地は混沌で暗闇でした(2節)。神の創造の御業がなければこの世は秩序はなく混沌だけでしたが光を創造され、人が生きるものとなりました(3節)。
 闇と光の関係は私達人間の罪と救いの関係でもあります。私達は罪人であり、そこから救われない限り暗闇の中で落ちていくしかありませんでしたが、イエス・キリストが私達を暗闇の罪から救う為に十字架に架かってくださり、光の中を歩む事を可能にしてくださいました。ですから私達は闇に打ち負かされてしまう事は決してありません。
 3~25節は「神は言われた」という神の言葉が記され、次に「・・・であれ」という神の命令、「するとそのようになった」という結果が、同じパターンで記されています。このように神の言葉によって全てが創造されました。「神の言葉」は「出来事」という意味で用いられ、私達が発する単なる言葉とは違い、必ず出来事となって現れます。神の言葉によってのみ私達は支えられ、神の言葉によってのみ生かされています。
 神の口から出る言葉は虚しく戻らず、神の望む事を成し遂げ使命を必ず果たす、とイザヤ書55:11節に記されている通りです。
 私達はいつも微動だにしない信仰を持っている訳ではなく、時には虚しさの中で暗闇を見て動揺するような弱い者です。しかし、その混沌の中で決して虚しく戻る事のない、私達の命の源である神の言葉を聴かせて頂き、光を創造する神を見せて頂ける所が教会です。
暗闇から光を生み出す創造の神を信じて期待して教会に集う私達を、創造主である神は、週毎に喜んで招いてくださっております。