5月10日 礼拝説教概要

「沈黙して対峙する」 詩編65:1~14 
 信仰に生きる者にとって「沈黙」から学ぶことが非常におおくあります。それも「主の御前に沈黙する」、そのことを通して私たちは本当の自分自身の姿と、無くしてはならない大切なものを見出すことができます。
 歴史神学者の石原謙師は「日本のキリスト者の一番の問題は、依然未熟な点にある」と語っておられました。その理由は明らかに成長していないことを語っておられる訳ですが、体験的な信仰のなさをも言っているようです。真に神の御前に罪人として立つ経験、真に神に取り扱っていただいた経験、聖書のみ言が単なる言葉ではなく、自分自身に向けて語られている生ける神の言葉として受け止める体験があまりにも乏しくないか、と言っておられるのです。
ダビデは詩編65編を通して、神は三つの祈りの答えをもって満たされることを歌っております。
①「神は罪を赦してくださる」お方であるということです。
神の御前に沈黙するとき、何が起こるでしょうか。それは畏れです。私達は神の御前にあっては裸同然です。贖い主がおられなければ、とても神の御前に立てるような存在ではありません。
②「歴史を支配しておられる神は、この世の善悪に必ず決着を付けられる」お方です。清算のその時が必ず来ます。
③「神は豊かな収穫を与えて下さる」お方です。それには前提があります。「主を畏れ敬う者」(9)の上に与えられる恵みであるということです。
千人教会を実現した大和カルバリ教会の大川従道牧師は、貧しい牧師家庭に生まれ、修学旅行に行けなかった体験の持ち主です。彼は怒り、お母さんの髪の毛を引っ張りまわしながら、ののしりました。しかしそのお母さんは「お前は修学旅行に行けなかったけれども、いつか世界中を回れる人になれるよ」と語ったそうです。その時は気にも止めなかった従道少年はその後、悔い改めて献身し、他の兄弟と共に一家挙げて主に仕えておられます。
「主の前に沈黙し対峙する」、そこから大いなる恵みを頂くことができるのです。