無罪の判決が下る

ローマの信徒への手紙5章12~21節

澤田 武師

主題聖句 『そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。』 ローマの信徒への手紙5章18節
 「信仰者が生きて行く」ということは、「一人の人イエス」と出会うことです。さらにパウロは、信仰者がイエス様を通して「一人の人アダム」とも出会うと語ります。アダムは神様によって最初の人として創造され、最初の罪を犯しました。パウロは、イエス様とアダムとを対比することによって、救いの中に生きる「新しい人」と、罪に苦しむ「古き人」との違いを語っています。
 パウロは、神様への「不従順」について、それは神様と同じになろうとすること、被造物である身分を超えて生きようとすること、それこそが罪であると語ります。
そして、罪は「世に入り」、この世を支配します。罪は全ての人を「死」へと引きずり込みます。死とは肉体的なことだけではありません。死は、神様と私たちの関係の断然、永遠の隔離を意味しています。
 18 節「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」神様が自らを低くして人となられ、同じ人としてお生まれになり、十字架の死によって、先に私たちの罪を贖ってくださいました。神様へのイエス様の従順が、罪からの救いを成し遂げられました。
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)イエス様は律法の完成、福音を伝えるために十字架の死に至るまで、従順に歩まれました。
 「イエス様の十字架の死」それはローマ兵には「命令」、悲しむ民衆、女性たちには「絶望」、キレネ人シモンには「怒り」、そして、祭司長、律法学者たちには「喜び」となりました。それらは本来の十字架の意味ではありません。
 イエス様の十字架の死は多くの人のための死でした。罪人のための死です。愛のゆえの死にほかなりません。一人の人イエス様は、自らの命で私たちに、神様の前で無罪の判決を与えてくださいました。この方を愛し、この方のために生きましょう。もっと大胆にキリストを信じ喜びを証しましょう。
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