涙と共に種を蒔く

詩編126編

澤田直子師

主題聖句 「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」 詩編126編5節
 収穫を祝う祭りはどこの国にもありますが、教会の収穫感謝は「感謝」を強調します。アメリカの祝日である収穫感謝日の由来には、助け合う心と隣り人への感謝があるからです。
 126編の5節はたいへん有名で、聖書を知らない人でも諺のように聞いたことがある御言葉でしょう。「苦労は必ず報われる」というような意味で使われていると思います。ですが、信仰者の目と耳と心をもって、この御言葉を味わう時、また違う何かが見えてきます。時代背景としては、紀元前520年ごろ、バビロンがペルシャに征服され、捕囚として連れて来られた人々に、ペルシャ王キュロスがエルサレムに帰ることを許可した、その喜びの中で歌われた詩だと言われます。それは単純に故郷に帰れる、嬉しい、というだけではなく、信じていた神様からの応答を得た喜びでした。
 「種を蒔く」という農作業が泣くほどつらいということではないでしょう。種は地面に蒔かれ、その命を終えなければ芽吹くことができません。ですから、種を蒔くという作業は死者の埋葬を思い起こさせるものであり、新しい命が生まれるために一つの命が終わる、その悲しみが涙と共に、と歌われるのです。
 これはそのまま、主イエス・キリストがわたしたちの罪を贖うために十字架で死なれ、信じる者が新しい命をいただいたことと結びつきます。イエス様ご自身が「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」V(ヨハネ12:24)と言っておられます。またイザヤ書53章の十字架預言には「彼は自らの苦しみの実りを見・・・戦利品としておびただしい人を受ける」とあります。
 収穫を期待しないで種を蒔く人はいないと思いますが、本当に「涙と共に種を蒔く」のは誰なのかよく知りたいものです。その愛と憐みを受けた者として、その後をついて行きたいと願います。
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