聖霊によって一つ

コリントの信徒への手紙一 12章18~26節

澤田直子師

主題聖句 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」 コリントの信徒への手紙一 12章26節
 コリントの信徒への手紙は、「教会」が何を目指しどう在るべきか、が中心になっています。パウロは、教会のありようを人間の体にたとえて、部分と全体との関係について述べます。しかし、いい大人相手に、なぜこのような分かり切ったことを言わなければならなかったのでしょうか。
 コリントは商業都市として栄えた豊かな町です。教会のメンバーの間にも、世での財産や権威は入り込んでいたでしょう。派閥ができたことも、教義上の問題というよりは、声の大きい者、財産がある者のところに人が集まるような状況だっただろうと思います。そしてこのような問題は、コリントだけでなく、現在の教会の中にも起こりうるものだと思います。
 コリントの信仰者はまさに「見ている目が一番偉い」「足が一番働いている」「手の業が一番難しいから手が偉い」と言い争うことに夢中になって結局一歩も前に進めないようなありさまでした。パウロはどう書き送ればコリントの信徒たちが自らの問題を直視できるか考え抜いて、一つの体という分かりやすい例えを用いたのだろうと思います。
 「弱い」「見劣りがする」「見栄えが良い」などの言葉がでてきますが、体の良し悪しではなく、人には見せない部分とか、顔や声のように人を代表する部分というような意味が含まれます。一人の人の一部分であるからには、必要のない部分はありません。痛みがあろうと、しわがあろうと、無い方が良いところはあり得ません。教会も全く同じように、25節「それで、からだに分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」となるはずなのです。この根拠をパウロは13節で「皆一つの体になるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」から、と教えます。信仰者は、始めから終わりまで、自分の力で教会であることはできません。何によって、何を目指して、教会であり続けるか思いを巡らせ、世に遣わされましょう。
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