我が心を知りたまえ

ヨハネによる福音書13章21~30節

澤田直子師

主題聖句 「そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい。』と彼に言われた。」 ヨハネによる福音書13章27節b
 ヨハネは最後の晩餐の光景を書き残していません。ヨハネにとっては、イエス様が、ユダが裏切ることを分かっていて、彼を外に行かせたことが強く印象に残っていたのかもしれません。
 イエス様がパンを浸して渡した時、ユダに「サタンが入った」と書かれています。パン切れを浸して渡すのは、特別に親しい人にする行為です。そして、サタンが「入った」という言葉は、むしろ「満ちた」に近い意味を持っています。サタンは、人の心の中に、何か新しい悪を吹き込むのではありません。心にある雑然としたあれこれの中から、「これが正しいのだ。これしかない。」と思い込ませ、他のことを見えなくしてしまいます。この時ユダは、自分の理想通りのメシアを得るためには「こうするしかない」と思い込んだのです。
 サタンの誘惑が一番怖いのは、自分は正しいと思い、正しいことをしようとする時です。兄弟げんかも戦争も、すべての争いは「こっちが正しい」から生まれます。人間の正義は平和を生まないのです。
 イエス様のお言葉を聞いて、ユダは夜の闇の中に出て行きました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい。」しかしユダは選ぶことができたはずです。神様のご計画である以上は、十字架による罪の贖いは必ず成就したでしょうが、そこにユダは関係しないこともありえたはずです。サタンの「これしかない、これが正しいのだ」という声の方をユダは選んでしまいました。
 サタンの誘惑が満ちる前に、「主よ、わたしの心を知ってください。」主に全てを明け渡していきましょう。
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あなたがたにしたとおり

ヨハネによる福音書13章12~20節

澤田 武師

主題聖句 『わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』 ヨハネによる福音書13章15節
 「わたしが…したことが分かるか。」と、イエス様は再び弟子たちに問われます。「足を洗う」ことは日常の業です。しかし、身分の上の者が、身分の下の者の「足を洗う」のは、ありえないことです。今、イエス様が新たな関わりを弟子たちと築こうとする時、特別ではない日常の業でさえも、最も大切なことを伝える証しに変わりました。
 イエス様の存在は、「神様のへりくだり」を表しています。神様が私たちのところへ、イエス様として来られました。私たちの救いのために、最も残酷な十字架刑にかかられるために、私たちと同じお姿になって来られました。
 その方こそ、弟子たちの足を洗われたイエス様御自身です。そして、今後どのように生きていかなければならないかを話されました。
 「わたしがあなたがたにしたこと」、それを忘れないように。また「わたしがあなたがたにしたとおり」、あなたがたもしなければならない。愛を実践する者は、幸いな者として歩むのだと言われます。このお言葉は、神様を信じて、神様の僕となった、私たちにも語られています。
 詩編において預言されていたことが、ユダの裏切りによって成就します。神様はすべてを、イエス様の手にゆだねられました。イエス様は、ユダも含む弟子を「わたしが選んだ」と言われます。すべてが神様の御旨の内にあることを弟子たちに伝えておられるのです。
 この後、ユダの裏切りは弟子たちには大きな衝撃となりました。それは自分たちの存在意義が分からなくなってしまうほどです。イエス様のお言葉「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」人に系図があるように、信仰にも系図があります。信仰の系図は決して途切れません。信仰は「わたしをお遣わしになった方を受け入れる人は、イエス様を受け入れる。イエス様を受け入れる人は、遣わされた人、あなたがたを受け入れる」と、永遠にどこまでも続いていきます。わたしたちへの励ましのお言葉です。
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弟子の足を洗う

ヨハネによる福音書13章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」  ヨハネによる福音書13章7節
 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から・・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」目の前にいる弟子たちの弱さ、その中の一人、ユダは間もなく裏切る者となることをも知りながら、イエス様は弟子たちの「足を洗い」始められました。
 ユダヤでは、訪ねて来た者を歓迎する業として、来訪者の足を洗いました。それはおもに奴隷の仕事とされていましたが、弟子たちを愛し抜かれ、これからも続く関係を証しするために、イエス様は夕食の席から立ち上がり、自ら弟子たちの足を洗い拭かれます。しかし、ペトロは、「主よ、あなたが・・・。」と、イエス様の業に戸惑いを隠しきれません。
 イエス様が来られる以前は「十字架刑」は政治犯や重罪人を処罰するローマの刑法であり、一般人も目にする機会がありました。また、「足を洗う」ことは、全くの日常の出来事です。しかし、十字架刑も、足を洗うこともイエス様が関わられると、特別な、そして一度限りの出来事に変わりました。
 イエス様は弟子たちに「師であるイエス様に足を洗われる」体験をさせられました。十字架がただ一度きりであるように、弟子たちの足を洗われたことも、ただ一度のことになりました。十字架は救いの約束の成就、弟子の足を洗われたことは、イエス様と弟子たちの歩みが永遠に続くことを示しています。この後、十字架と復活を経験した弟子たちは、使徒となって十字架の愛を証し続けます。イエス様の、愛の証しの物語がここにあります。
 「わたしのしていることは、…後でわかるようになる。」イエス様はこの世に留まる弟子たちに、御言葉と祈りを残されます。神様のご計画であるイエス様の十字架と復活、その御業が成就した時に、弟子たちは使徒として世界中に福音を宣べ伝える者へと変えられますが、今の弟子たちには、考えも及ばないことです。イエス様が弟子たちを「愛し抜かれた」のは、弟子たちがはっきりと「十字架の意味を知る者」となるためにです。
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命のみ言葉

ヨハネによる福音書12章44~50節

澤田 武師

主題聖句 『わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。』  ヨハネによる福音書12章48節
 ヨハネによる福音書には、過越しの祭りの雑踏の中で、一人「叫ばれる」イエス様のお姿が記されています。全ての福音書は、イエス様の公生涯の始まりについて、イザヤ書の預言「荒野で叫ぶ者の声」(洗礼者ヨハネ)の成就であると伝えています。そしてヨハネは、雑踏の中で叫ばれたお言葉が、イエス様が群衆に対して語られた最後の時であったと記しています。
 そして今、イエス様は十字架を目の前にして「わたしを信じる者は…わたしを遣わされた方を見るのである。…だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」イエス様が居られるところは、たとえ雑踏の中であろうと福音が響きわたる場所に変えられました。暗闇を光に変えるために、イエス様は遣わされ留まり続けられました。
 「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。…世を救うために来たからである。」十字架を見上げていた百人隊長、一緒に十字架に架かった強盗、彼らはイエス様を信じました。私たちは、何時イエス様を信じる者に変えられるか分かりません。イエス様は、この世の全ての人の救いのために、今もなお、お言葉を語り続けておられます。
 「わたしを拒み、…わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」ヨハネによる福音書は「裁き」はもう既に始まっていると伝えます。「拒む」と訳された言葉は、本来は軽蔑する、無視すると言う意味です。イエス様に出会いながら、心に留めず、受け入れず、信じなかった者への裁きがあることが、ここでイエス様御自身によって宣言されます。
イエス様のお言葉を聞いた者は、信じるか信じないかを、絶えず問われます。
 イエス様のお言葉は、神様の愛の現れです。神様の愛を選ぶか、拒否するかをはっきり示さなければなりません。「再臨」の時には、イエス様はお言葉をもって、「裁かれる」と、語られました。イエス様のお言葉は、神様からの命です。それは永遠の命を与えてくださる約束です。最後の「裁き」はその愛と命を拒絶した者が、神様から拒絶されることです。
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