心を燃やして

ルカによる福音書24章28~35節

澤田直子師

主題聖句 『二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。』
        ルカによる福音書24章32節

 エマオに向かう二人の弟子に、復活の日の夕方に起こった出来事です。60スタディオンは約11キロ、大人の足で3時間弱の距離です。エマオはおそらくこの二人の故郷か、そこに向かう道筋にある村だったのでしょう。二人に追いついてイエス様が一緒に歩かれても、二人にはそうとは分かりませんでした。イエス様の十字架のことを話し合っていたのに、です。わたしたちの目は暗く、心は頑なで、主が共におられるのにそうとわからないという事が起こり得ます。それでも主は共に歩いてくださいます。
 エマオに宿をとった二人は、イエス様を引き留めます。イエス様とは分からないまま、離れがたい気持ちになっているのです。福音という真理は、真理であるがゆえに、わたしたちの心に食い込んできます。使徒言行録の8章でも、エチオピアの高官が「分からない」と言いながら馬車の中でイザヤ書を読んでいる、という場面があります。
 食卓に着いた二人は、ユダヤ人の習慣にはない事ですが、客であるイエス様に食卓の主人役を頼みます。そしてこの時二人は気づきます。何度も見て来たお姿、何度も聞いた祈りの声、知らずに食卓の主人役を頼んだその人が、紛れもなく、本当の主人だったのです。そのとたん、そのお姿は消えてしまいます。
 二人の思いが、自分の経験と知識に凝り固まっていた時には、目に見えるイエス様のお姿が必要でした。しかし二人の目が開け、本当の主が誰かを見出した後には、もう見える姿は必要なくなったのです。彼らは「心は燃えていたではないか」と話し合い、今来た11キロの道のりを帰ります。
 わたしたちの思いだけで、心が燃えることはありません。そこにイエス様が共におられ、共に歩まれ、御言葉を解き明かしてくださる時、わたしたちの心は燃えるのです。心を燃やして、遣わされて行きましょう。
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主は生きておられる

ルカによる福音書24章1~12節 

澤田 武師

主題聖句 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
         ルカによる福音書24章6節

 週の初めの日、墓に向かう女性の弟子たちは深い悲しみと憤りの中、イエス様の死という現実を受け止めようと必死でした。さらに、イエス様を葬った墓が開かれ、イエス様がそこにおられない事実を見ました。彼女たちは途方に暮れるしかありませんでした。
 その彼女らに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と、御使いは問いかけます。あなたの狭い視野の中にイエス様を探しても、そこにはおられない。死をも打ち破り、イエス様は復活されたのだと御使いは知らせます。御使いの言葉は、私たちにも向けられています。あなたの絶望、苦難、困難から、あなたの目を離しなさい、と言われます。生きて働いてくださる復活のイエス様は、あなたの全ての苦しみをご存じです。生ける福音として、イエス様は今も働かれています。
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と、御使いは宣言します。ルカは、イエス様のお誕生の知らせもベツレヘムの人々には不思議な事でしかなかった、と記しています。空の墓を見た女性たちは、御使いの言葉を信じ、男性の弟子たちに知らせましたが、彼らには「たわごと」と聞こえ信じられませんでした。イエス様がこの世に来られたこと、そして、十字架の死から復活されたことは、いずれも神様が私たちへの救いの御業を完成された、ただ一度のことです。それは、私たちの思いを超えた神様の御業として、私たちに知らされた福音、良き知らせなのです。
 信仰の目をもって「十字架の死と復活」を知ろうとするならば、神様のご計画が人の歴史の中に置かれた唯一の「死からの復活」イースターの出来事として、与えられたことであると分かります。私たちのために、イエス様が復活してくださったという事を信じた時に、復活のイエス様にお会いすることができるのです。イエス様はどこにおられるのか。復活を信じた者一人一人の生活の中におられます。永遠の命に生かされましょう。喜びをもって宣べ伝えましょう。イエス様は待っておられます。
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十字架からの眼差し

ヨハネによる福音書19章16~27節

澤田 武師

 十字架につけられたイエス様は、肉体的にも精神的にも耐え難い苦しみの中におられます。ヨハネは十字架の上のイエス様の思いが、印象的な、感動的な出来事として、周囲の人々に現わされたことを記しています。
 当時の十字架刑は、大人が立って手を伸ばせば、十字架に付けられた罪人(ざいにん)の足に触れることが出来るほど、近くにありました。既に男性の弟子たちは、逃げ去ってしまいましたが、イエス様と共に歩んできた複数の女性が、この時にもイエス様の十字架のもとにいたことをヨハネは記しています。この女性たちの中に、母マリアはいました。
 十字架のお苦しみの中で、イエス様の眼差しは、罪人(つみびと)に向けられていました。イエス様は刑執行の報酬をくじ引きで決めているローマ兵に「彼らは何をしているのか知らないのです」と、とりなしの祈りを奉げられます。共に十字架刑を執行された一人の強盗に「今日わたしと一緒に楽園いる」と、救いの宣言をされました。
 イエス様は御自分をお産みになった婦人のことをお忘れになりませんでした。十字架の上のイエス様の眼差しは、母マリアと、マリアの今後を託した愛する弟子に向けられています。そして母マリアに「御覧なさい」、「婦人よ、あなたの子です」と声をかけられます。愛する弟子には「見なさい。あなたの母です」と、呼びかけられます。その時からイエス様のお言葉は、彼らの現実となりました。
 イエス様の眼差しは、新しい家族を作り上げました。新しい関係を作り上げました。彼らには新たな使命が与えられました。後に信仰の兄姉の家族としての、教会が生まれます。
 あなたの周りを見回してみてください。そこには教会での母がいます。父がいます。息子がいます。娘がいます。家族があります。イースターには新しく、信仰の家族が与えられます。喜びをもって待ち望みましょう。
 イエス様の眼差しを知る者が、十字架の先にある、復活のイエス様を信じる者が、新たに加えられます。イエス様の眼差しは、どんな時も全ての人に向けられています。
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神の名は響く

ヨハネによる福音書8章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「すると、イエスは言われた。『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
  ヨハネによる福音書18章8節

 イエス様は、御自身を捕らえに来た者たちの前に、自ら進み出られて「だれを捜しているのか」と問いかけます。祭司長やファリサイ派の人々は「ナザレのイエス」と答えます。「イエス」当時は普通に使われていた名前です。彼らはこの名前の人物を捕らえるために、普段は敵対するローマ軍の力に頼ってまでも、十分な備えをもってイエス様に迫ります。
 イエス様は、ご自身を彼らの前に現されました。「ご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、」イエス様だけが、十字架への道の意味を知っておられました。わたしこそ十字架に架かる者であると宣言されるかのように、「わたしである」と、名乗られました。
 イエス様の名前、それを聞いた彼らは「後ずさりして、地に倒れた。」この奇跡を体験してもなお、この名前こそが、神様の独り子の名前であるということは、理解出来ませんでした。
 全く無力な弟子たちにも、突然とてつもない試練が襲い掛かろうとしています。イエス様は全ての者をご自身に注目させるために、話されます。
 「この人々」、何もすることができない弱い弟子たちを「去らせなさい」と、命じます。共に歩んで来た弟子たちの安全を、逃れさせることをイエス様は忘れてはおられませんでした。
 パウロは「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」とコリントの信徒への手紙に記しています。試練の時にこそ、神様の御旨を知るチャンスがあります。主のご計画の中で、逃れの道はいつも私たちに備えられています。それを知るために試練があるのかもしれません。
 私たちには、神様に向かって、イエス様のお名前によって祈る特権が与えられています。私たちのために十字架に架かってくださった、イエス様の名前を呼ぶことを、私たちは第一にしたいと思います。その名前をこの世に響かせることが、神様からわたしたちに与えられた使命ではないでしょうか。
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