生ける水を求めよ

ヨハネによる福音書4章1~10節

澤田直子師

ユダヤ地方からガリラヤへ行こうとすると、途中にサマリアがあります。当時のユダヤ人は、サマリアを嫌ってわざわざヨルダン川沿いの回り道を通りました。サマリアは北イスラエル王国の首都でしたが、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされて後は、混血が進みました。ユダヤ人はそんな所を通ったら汚れると考えたのです。しかしイエス様はあえてサマリアを通ります。
 5節に出てくるシカルの井戸は、創世記にも何度か記される「シケム」です。イエス様はここに、旅に疲れて座っておられました。神の独り子として、疲れや飢え渇きを克服することはできたでしょう。しかし、後で来るサマリアの女の目に、立派すぎて近寄りがたく見えないように、疲れて渇いている必要があったのだと思います。まことに主は、わたしたちのところまで降りて来てくださるお方です。
 水を汲むのは女性の仕事ですが、重労働なので、朝早くまだ暑さが来ない内に、何人かで連れ立って助け合うことが普通でした。ですから、真昼に一人で水を汲みに来るのは異例のことです。そこでイエス様の方から声をかけるのも、異例中の異例です。ユダヤ人の宗教指導者は、家族以外の女性に声をかけることはなかったそうです。イエス様は「水を飲ませてください」と話しかけました。上から目線で、教えてやろう、助けてやろう、というのではなく、女性の親切を求めたのです。
 また8節では、弟子たちが食べ物を買いに行っていたとありますが、これは明らかにイエス様がそうお命じになったのでしょう。もしこの場に弟子たちがいたら、サマリアの女は、怖気づき、心を閉ざしてしまったでしょう。イエス様は、この女性と一対一で話をしたかったのです。
 イエス様は、たった一人の女性を救うためになんと綿密な、思いやりのあるご計画を立てたことでしょうか。同じように、わたしを、あなたを救うために、主はどれほどのことを計画し実行してくださったでしょう。主と出会った時を思い起こし、生きた水を求めて歩みだしましょう。
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神の言葉を話す

ヨハネによる福音書3章31~36節

澤田直子師

ヨハネによる福音書3章の終わりは、洗礼者ヨハネによる証です。洗礼者ヨハネ自身が祭司の家系に生まれた奇跡の子どもでした。しかしヨハネにとっては、自分のところに留まられては困るのです。何とかしてイエス様の方へ行ってもらわなくてはなりません。
 イエス様の方でも、ご自身には分かり切っていることが、愛する弟子たちには理解できないという難しさを持っておられる。福音書には、イエス様がご自身を証しされている言葉が記されていますし、十字架と復活についても3度も話されていますが、弟子たちは理解しません。結局、洗礼者ヨハネの証しであれイエス様のお言葉であれ、受ける側の問題なのです。
 32節「だれもその証しを受け入れない。」は、ゼロではなく、ほんのわずかな者が該当することを表す言葉です。そのわずかな者だけが33節 「神が真実であることを確認したことになる。」 この「確認」は、普段使いではなく、重要な書類や証文を一字一句確かめてサインをして責任を持つくらいの重い意味を持つ言葉です。
 キリスト教は関係性を作っていく教えですから、自分一人が理解しても救われても、それだけでは不十分です。その福音を、あなたは誰にどのように伝えますか、と問われます。その方法論を知るために、わたしたちは何かというと聖書を読み、御言葉から学ぶのです。
 イエス様が天に属するお方でありながら、この地上に来られたのは、最も高い所から低い所へ来てくださったということです。癒しの奇跡を多く行われたのは、痛みや苦しみを憐れんでくださるお方である証です。 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話す。」 イエス様の言動は神の御心そのものでした。しかし、もともと地に属する私たちも、主の十字架の贖いによって神の子と呼ばれる以上は、やはり神の霊をいただいて、神の言葉を話すのです。申命記30:14「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 できる、と主は言われます。「神の言葉を語る」日々を歩みましょう。
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わたしは喜びで満たされている

ヨハネによる福音書3章22~30節

澤田 武師

主題聖句 『あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。』   30節
 29節、洗礼者ヨハネの言葉 「わたしは喜びで満たされている。」 を説教題といたしました。それは私たちも「喜びで満たされた」信仰生活を送りたいからです。神様が最初に人間を創造された時、神様は人間に必要なものを先に備え、人間が「喜びで満たされて生きる」ようにと、この世界を整えていてくださいました。神様は、創造された全世界を支配させるために、特別に人間を創造されました。神様から人間に与えられた使命は、唯一の神様を礼拝する者として「喜びで満たされて」生きることです。
 私たちの思いが、「主の栄光を現す者」、「主を証詞する者」であるならば、私たちの歩みには困難や苦難は無くなります。しかし、現実には様々な困難や苦難を覚えます。それは私たちの心に、他者と比較する心、嫉妬する心、この世の評価に囚われる心があるからです。それは 「対立する心」 となり「対立する心」は、洗礼者ヨハネの言葉 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」 を受け入れることが出来ない、罪となります。
 洗礼者ヨハネはよく信仰者の鏡のような人物と評価されます。自分の役目を知り、イエス様を証するために、備えの道を整えるために生かされた者。そして、役割が終わるとその場から消えて行く者。結婚式の例えで、介添え人の喜びは、「花婿の声が聞こえること」と記されています。介添え人は花婿(イエス様)の親友である者に託された使命です。神様は同じ使命を私たちにも与えられています。私たちは唯一の神様を礼拝し、応答の賛美をお献げします。私たちの生き方全てが、イエス様を証する歩みとなります。
 洗礼者ヨハネは信仰を頑張った人物ではないと思います。彼は信仰に励んだ人物です。彼はすべてを神様に委ねました。私たちも信仰生活に励んで行きましょう。決して頑張らないでください。
 神様は私たち一人一人をよく知っていてくださいます。欠けだらけの者であることもよく知っておられます。その私たちがイエス様を証する者として、用いられています。この選びにこそ祝福があります。結果を委ねた時に、「わたしは喜びで満たされている」信仰生活が始まります。
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ナザレの人イエス

マタイによる福音書2章19~23節

澤田 武師

主題聖句 「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、
        預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」23節

 マタイによる福音書は、クリスマスのもう一方の現実、暗闇の中を歩む二組の者たちの存在を伝えています。ヘロデ大王ほどメシア誕生の出来事を一番身近に、真剣に、そして不安に覚えた人物はいないと思います。彼の心は、自分自身への執着、抵抗勢力を排除する「闇」で覆われていました。「心の闇」は、イエス様との間に断絶を創りだします。彼はクリスマスの光、救い主誕生の祝福を見ることは出来ませんでした。
 一方、ヨセフも暗闇の中を歩んでいます。救い主誕生の大きな喜びを知ったそのすぐ後に、ヘロデ大王の「心の闇」は、彼らが他国に避難しなければならない事態を引き起こしました。さらなる混乱はヨセフに、新たな「闇」を感じさせたはずです。しかし彼は迷わず、天使の命令に従い、直ちに行動を起こします。彼には闇の中でも 「エジプトに逃げなさい。わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。」「イスラエルの地に行きなさい」「ガリラヤ地方に引きこもる」 との御言葉が与えられます。御言葉はどれも行先の指示はありますが、そこで何が起こるのか、何も具体的なことは知らされていません。
 ヨセフには今、行先を示した「点」としての御言葉が与えられました。次の「点」がいつ与えられるかは分かりません。示された所がどのような場所なのかは、行って見なければ分かりません。しかし、彼は示されたらその「点」に向かって進んで行きます。
 「ナザレの人イエス」この言葉は、後にイエス様に敵対する者たちが蔑んで使ったイエス様の呼び名です。イエス様の歩みは「十字架」に向かっての歩みです。その歩みは最初から、時の権力者の妬みや、執着心「暗闇の心」がいつも共にありました。
 「点」は彼らの旅の終わりを、安住の地となるナザレを示しています。それは、苦難の僕としてのイエス様が、宣教を始める準備の町ナザレへの旅となりました。「点」を信じて歩む彼らの姿は、神様の御言葉に従い続ける信仰者の姿です。それは、私たちの姿でもあります。イエス様を主役とする者の生き方です。
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