ますます力を得て

使徒言行録9章19~31節

佐々木良子牧師

 キリスト教会を迫害していたサウロ(後のパウロ)は、目からうろこのようなものが落ちて、霊的な信仰の目が開かれると『すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた』(20節)と記されています。伝道者サウロとしての第一歩は洗礼を受けると直ちに、自分が受けた主の憐みを人々に宣べ伝え始めました。そうして伝道がスムーズに繰り広げられたかというと決してそうではありませんでした。暫く前までキリスト者を捜し出して迫害していた超危険人物が一転して、「イエスは神の子」と言い始めたのですから、ユダヤ人仲間からは裏切り者と思われ、キリスト者たちからの拒否反応は当然といえます。
 ダマスコ、エルサレムにおいて彼の説教に対する大きな反発が起きました。彼自身の身に危険が迫っていることを知り、これ以上騒動が大きくなることを避けるために、カイザリヤへと送り出されそこから故郷のタルソに向かったのです(23~30節)。彼の行く所はどこでも受け入れられず孤立した状態でした。タルソに滞在していた頃については「…労苦したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした…」(Ⅱコリ11:23~29)と言われている程です。しかし、尚、主にあって確信を与えられ恐れることなく益々強められていきます。
 神は恵みに満ちたバルナバという助け人をお与えになり、サウロを通して福音を語らせ神の御計画は着実に実行されていきました。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)
 過去のサウロの傍若無人ぶりは許しがたい罪でしたが、神の恵みは人の罪を遥かに超えた所に益々注がれていました。キリスト者となったサウロを守ったのは、背後にあって導いてくださった神ご自身の力です。ですから彼は後に「弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12:10)と、彼の真実の言葉が私たちを励ますのです。私たちが知っている世界的伝道者パウロは自分の力によってはなく、弱い時に与えられた神の御力とバルナバという助け手が与えられたこと等、そのどれかが一つ失われても為し得なかったことを知ることができます。ますます力を得るとは弱い時にこそ神が一つずつ備えてくださる力なのです。

目からうろこ

使徒言行録9章1~19節

佐々木良子牧師

 一般的に驚くような気づきを「目からうろこ」と表現されていますが、その由来は本日の聖書からで、霊的に目が開かれることを意味します。「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。・・・主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」
(8,17,18節)
 このような霊的体験をしたのは、キリスト教の迫害者であったサウロ、後のパウロです。イエス・キリストとの出会いによって霊的に目が開かれ。信仰を与えられて主イエスの十字架の道に従い続け、最大の宣教者となった人物です。これは教会の歴史を変えた大きな出来事で、パウロの神学の中心部である全ての原点がここにあると言われている程です。
 聖書の至る所で彼自らのことを「神を汚す者・暴力をふるう者・激しく神の教会を迫害する者」等と語っています。その理由は、十字架上で惨めな死に方をしたイエス・キリストをメシア・救い主として崇める信仰は間違いでユダヤ教を汚す事だと考え、教会を迫害することが神に仕えることで正義だと間違った確信から生まれたものでした。
 しかし、「…突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」(3~4節)とあります。「光」とは、神の栄光の輝きの象徴で、この瞬間に復活された主イエスに出会わされて頂いたのです。、悔い改めて新しい人生を与えたのではなく迫害している最中に、神は彼を選んでおられました。神の救いは人間がどんなに逆らっていても、救われるために何一つ備えがなくても、一方的に私たちを選んでくださっておられます。神のご計画は計り知れないものです。
 この時彼は全く視力が奪われ、他人の手を借りなければ一歩も歩くことができなくなりました。神はそのような者にアナニアという助け手をお与えになり彼を通して、十字架にお架かりになった主イエスは、敗北者ではなく実は甦られた勝利者であり、自分の救い主であることに目が開かれたのです。彼は神の愛の中で生きる人間へと180度方向転換し、神にお遣えする者となりました。この神の憐みと選びと救いが、いつも私たちに向けられていますから幸いです。

洗礼を受けて喜んだ人

使徒言行録8章26~40節

佐々木良子牧師

 『「…エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐに出かけて行った…」』(26~27節) ユダヤ人から忌み嫌われていたサマリア地方は、主イエスの弟子であるフィリポの伝道によって多くのキリスト者が生みだされ、伝道が活発に繰り広げられていました。しかし突如、彼はガザという寂しい地へと向かわされました。そこを通る馬車に乗っていたエジプトの宦官のたった一人の救いのために、神はフィリポを遣わしたのです。
 この後、彼は目まぐるしい巡回伝道旅行へと導かれていきますが、サマリアやエチオピアで伝道した頃は特に大きな働きとなって、一世紀から現在に至るまでエチオピアで活動を続けるコプト教会を生み出したのです。ともするとサマリアからガザに下る事は負への一歩のように思ってしまいますが、神にとってはこのような壮大な御計画の内にあったのです。
 さて、フィリポによって救われた宦官は、エチオピアの女王に信任されていた重鎮でしたが、礼拝するためにエルサレムに上り馬車に乗って帰る途中でした。彼は日本でいえば九州から北海道ほどの距離を巡礼していましたからその求道心は相当のものでした。その帰路に預言者イザヤの書を読んでいましたがフィリポの解き明かしを聞いて、罪の代わりに十字架に架かって死なれたイエス・キリストによって、自分が罪から救われていることを信じ、新しい永遠の命を求めてバプテスマを受けました(31~38節)。その後の彼は「喜びにあふれて旅を続けた。」(39節)と、記さているごとくです。
 聖書は命の言葉です。どんなに知識的に読んでも、学んでもその真髄を理解することはできません。この命はイエス・キリストを信じて求める者が初めて受けるものです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)聖書は読んだら終りではありません。薬の効能書きを一生懸命読んで理解しても信じて飲まなくては癒されません。神は福音を信じて生きることを私たちに求められています。「信じてバプテスマを受ける者は救われる…」(マルコ16:16)
 しかし、神は信じない者を見捨てられたのではありません。今もたった一人のために誰もいないような所まで神が人を遣わして追いかけて、一人のために様々な形を用いてくださり命の言葉を語ってくださっておられるのです。

海を通り抜けた先にある祝福

出エジプト14章19~31節

佐々木良子牧師

 イスラエルの民は敵国であるエジプトに連れて行かれ奴隷としての生活を強いられましたが、紅海を渡って脱出する時の出来事が記されています。彼らはシナイ山の方に向かって南東に進んでいましたが、神はわざわざ引返せと命じられました。それは道から反れて海に向かって北東に向かえという事です。彼らの目の前は海で道のない袋小路に追い込まれ、後ろからはエジプト軍が突進してきます。神ご自身がそのような絶体絶命の状況を作られました。
 しかし、逆転劇が起こったのです。「…主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた…水は彼らの右と左に壁のようになった…イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」(21~25節)水が分かれるという事は常識的には不可能と思えますが、不可能を可能にすることがお出来になるのが神です。人間的な常識や経験では想定できないような助けが与えられた時、人は神の御業と納得できます。神は時には理解を超える道・方法・手段を用いて、神の大いなる力による救いを私たちに体験させようとされます。そこには神の目的があります。神のご栄光を現すため、神の憐れみを知るため、更に私たちのために戦って下さる神を知るためです。
 「主があなたがたのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14節)苦境の中にある時ほど私たちは、自分の力を最大限に出して戦い挑もうとしますが、そのような時こそ神の前に沈黙し、神ご自身が戦ってくださることに身を委ねることを神は望んでおられます。
 「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。」(イザヤ43:16)イスラエルの民は神のご臨在の内に確かに救い出されました。私たちも思い返すなら今年も半年が過ぎ、イスラエルの民が経験した出エジプトのような奇跡を経験させて頂いています。聖書には「思い起こせ」という言葉が多く出てきます。それは何となく昔の出来事を思い出すという事ではなく、その中にある神の恵みに感謝して現在の力とすることです。困難と思える海を通り抜けた先には祝福が待っています。その一歩一歩は神の御手の内にあって、その一歩一歩を進めてくださっているのは神です。今一度神の恵みを思い起こし、後半も私たちの信仰をいよいよ確かなものとして歩みたいです。