特別礼拝 「人生の旅路の同伴者」

ルカによる福音書24章13~35節

竹澤知代志牧師(玉川教会牧師)

 エルサレムからエマオまでイエスさまと一緒に旅した二人は、イエスさまが寄り添い聖書を解き明かす言葉・説教を聞いていましたが言葉を理解できず、イエスさまだとさえ分かりませんでした。『二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った』(32節)と、彼らは心が燃えていても分からなかったのです。
 その後、イエスさまが旧約聖書を論拠として十字架と復活について論じられ、イエスさまご自身の口から説教が語られ、イエスさまが食卓でパンを取り、祝福して割いて彼らに渡された時、二人の目が開かれました(30節)。聖餐式の起源となった最後の晩餐の出来事を連想します。「パンを割いてお渡しになった」(30節)とは、イエスさまご自身を渡されたことを象徴しており、この時彼らの目が開けたという事が決定的です。真の出会いがここに起こっているのです。全く、イエスさまからの一方的な恩みとしてのみ、この食事は実現しました。そして、私たちはそのような恩寵を求める所は聖餐式であり、礼拝そのものです。彼らの目を遮っておられたのを明けられたのも、神の力、神の御心です。エマオ途上に現れたイエスさまが語りかけて来られたこと、聖書が読まれたこと、お祈り、説教そして聖餐、全て礼拝のプログラムです。聖餐を中心とする礼拝の信仰順序なのです。エマオへと向かった彼らは既にイエスさまと出会っていますが、彼らの救いにはなりませんでした(19~21節)。キリストとしてのイエスさまとの出会いを待たなければならなかったのです。復活の主としのイエスさまとの出会いによって、私たちは初めて救いを見出すことができます。信仰は大勢の仲間と礼拝を守っていても、一人一人が神さまの前に立たなければ礼拝にはなりません。しかし、信仰は孤独ではなく仲間がおり、信仰が受け継がれています。「代々の聖徒と共に使徒信条を告白す」る群れなのです。仲間が大勢いる事は大事ですが、肝心な事は信仰が受け継がれていることです。
 さて「神の沈黙・不在」を覚える時がありますが、それは十字架上の沈黙で、そこで人間の贖いを、人間の救いを語っておられます。イザヤ書53章では、十字架と復活の間に起こるべき出来事、主は黄泉に降っておられます。これをもし「神の不在」と呼ぶとすれば、これこそが救いの印なのです。聖書の御言葉に聞く者には神は言葉をもってそして沈黙をもって語りかけて下さるのです。

ペンテコステ礼拝 「みなしごにはしない」

ヨハネによる福音書14章15~24節

佐々木良子牧師

 肉体をもっておられたイエス・キリストは、この地上を去り天の父なる神さまの元に昇られました。そのお姿は既に見えませんが、ご自身の代わりに聖霊なる神さまを送ってくださると約束してくださり、実現したのがペンテコステ・聖霊降臨の出来事です。
 主イエスは十字架にお架かかりになる直前、弟子たちに仰せになりました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる・・・あなたがたをみなしごにはしておかない。」(15、18節)
 私たちを愛してやまない主イエスの切望です。私たちが神の愛を受け続け、神との交わりの中で生き続けることを切に願っておられます。
 人間は主イエスを断罪し、天国に帰るまで罪を犯し続けるような汚れた者にも拘らず、主イエスの方から私たちが聖霊なる神との交わりの中に生きるようにしてくださいました。聖霊なる神が私たちの内に働いてくださっておりますから、何とか信仰から迷い出ず、永遠の命に至るための道へと導かれ助けられています。教会はその聖霊を受けた者たちの群れで、そこに私たちは招かれ身を置かせて頂いております。
 「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(15,21節)掟を守るとは、私たちから自由を奪い取るような単なる言葉の冷たい戒めではありません。その背後にあるものは、私たちの罪の為に身代わりとなってご自身が十字架にお架かりになるという、十字架の愛に込められたものです。私たちは主イエスが流された尊い血潮によって守られており、このことなしに私たちが生きる道はなかったのです。ですから私たちが掟を守らなければならないというのではなく、私たちは掟によって、生まれながら持っている罪の支配から守られているのです。私たちはこの神の掟を心から感謝し信頼して「主イエスにお従いしたい、主イエスの愛にお応えしたい」と願うならば、「みなしごにはしておかない」と仰せになった主イエスの言葉がどんなに真実であり、有難いかということがわかってきます。
 私たちが天の御国に帰るまで、共にいてくださる聖霊なる神の愛と力を頂きながら歩み続けることができることを心から感謝します。

いと高き方のお住まいは

使徒言行録7章44~53節

佐々木良子牧師
 ステファノが語る説教を連続して見て参りましたが、本日の箇所は締めくくりの部分です。彼を訴えているユダヤ人の指導者たちに対して、「あなたたちは神に選ばれ特別な民のしるしとして身体に割礼を受けていても、中身がない。あなたたちこそが神を冒涜しているのだ」と、自分たちこそ正しいと思っている彼らの罪を一気に厳しく指摘しています(52~53節)。
 「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく・・・内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であって、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神からくるのです。」(ローマ2:28~29)とパウロも語っているように、神の言葉を聞き、割礼を受けている者が神の前に正しいのではなく、これを実行する者が正しいとされるのです、ただ、割礼を受けるだけ、神の御言葉を聞くだけでは人は何も変わらないのです。反対に割礼を受けていなくても神の前に遜り喜んで神の御言葉を信じて歩む者を神は喜んでご自身の民としてくださるのです。ステファノを訴えている彼らは、神の民だと自分たちを誇り、神を誇り、神の教えを説きながらその教えに生かされていませんでした。彼らの信仰は形だけで神の恵みからは程遠いものだったのです。
 そこでステファノは、旧約聖書に記されている神殿の前身である「幕屋」と後のソロモンの時代に立てられた「神殿」を通して、神の本質について語りました。幕屋は元来「臨在の幕屋」と呼ばれ「わたしはその場所であなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う・・・」(出エジプト27:12)と記されていますように、神との出会いの場でありました。神殿も同じように、建物そのものが大切なのではなく、神の御前に出て罪の赦しを乞う事ができ、神との交わりに生きる者とさせて頂く場でした(48節)。
 信仰に生きようとするなら、神の御前における自分の罪とどうしても向き合わざるを得ません。しかし、神殿で神と交わる旧約の時代は去り、イエス・キリストの十字架の贖いによって豊かな赦しを頂いている新約の時代に生きている私たちです。今、愛と恵みの神が私たちの内に住んでおられます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリント一3:12)本当に神を知るならば、いつも我が内に住んでくださっている神の憐みと慈しみに感謝する者とさせて頂けます。

旅人の歩み

使徒言行録7章17~43節

佐々木良子牧師

 先週より学ばせて頂いていますステファノの説教の続きで、モーセの120年間の生涯が語られています。誕生(17~22節)、同胞から受け入れられずミディアンの地に逃げ出した40歳代(23~29節)、神からの召命を受けた80歳代(30~35節)が記されており、それは今も生きて働かれる神の歴史とイスラエルの民の罪の歴史といっても良いと思います。モーセに対するイスラエルの民の度々の反逆を通して、イエス・キリストの十字架が示されています。
 モーセが神から十戒を授かるためにシナイ山に登っている間、イスラエルの民はモーセがなかなか帰ってこないのを不安になり、アロンに「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください…」と懇願し、雄牛の像を造り、楽しんでいたとあります(39~41節)。自分たちを導いてくださる神を目に見えるものとして祭ることで安心するという不信仰です。42節以下はイスラエルの民が荒れ野の旅路において様々な偶像を拝んだことが記されています。人の歴史は恵みの主を裏切り、結局は自分たちが痛い目に遭うという繰り返しです(42~43節)が、いつも問われているのは「主なる神の約束の御言葉を信じきるか」という事です。
 イスラエルの民がモーセにそうであったように、人の歴史もイエス・キリストに対する不従順、無理解、拒絶の連続です。そして私たち人類の歴史でその最たるものが主イエスを不当な裁きによって十字架に架けたことです。しかし、聖書が語る神は「にも拘らず」、私たちに関わり続け救いの道を与えてくださっているお方なのです。
 このように旧約の時代からの全人類の取り返しのつかない人生を、どうしても拭いきれない私たちの罪の汚れを救うために、神は御独り子であられる主イエス・キリストを私たちに恵みとして与えてくださいました。モーセはそのことを預言していました(37節)。
 この世の無理解を全て受けてくださったイエス・キリストのように、ステファノも今、まさにその道を歩み続け主イエスの証人となって殉教の道を一歩一歩進んでいます。この後命を落とすことになりますが、信仰ゆえの不当な苦しみにあっても、最期まで先だって導いてくださる神を信じ続け証した彼の姿を代々の教会は伝えているのです。

皆さん、聞いてください

使徒言行録7章1~16節

佐々木良子牧師
 私たちの人生には予期しない様々な事が起きます。むしろ、その連続といっても良いかもしれません。そのような時に人は兎角、それが自分の運命と嘆いたり、人を恨んだり、自分の足りなさを悲しんだりしがちです。しかし、私たちを支配しているのは運命や人の企て、自分の知恵でもなく全知全能なる神です。御子イエス・キリストを十字架につけてまでも罪びとである私たちを愛し、罪の呪いと死から救ってくださった神の愛による御支配です。
 本日の箇所は旧約聖書に登場するアブラハムからヨセフについて語られています。ステファノは敵意をもって捕えられ議会に立たされ偽証されていく中、議長の大祭司によって弁明の機会が与えられました(1~16節)。弁明というより実質的に説教といえるものです。
 アブラハムは全てを捨てて神の約束を信じて従いましたが、そこで待っていたのは祝福からは程遠い困難な出来事ばかりでした。しかし、行く先々で祭壇を築き神が共におられることを再確認しながら、神の約束だけを信じ続けて歩み通しました。信仰の父と言われる所以です。そうして祝福の約束は一歩一歩実現していったのです。
 同じように、ヨセフの生涯も不確かな未知の世界を歩み続けるような人生でした(9~16節)。彼は兄弟たちから妬まれエジプトに売り飛ばされましたが、神は人の企てを超えていつもヨセフに働かれあらゆる艱難から彼を救い出し、エジプトを治める大臣にまでなりました。更にエジプトとカナンを襲った大飢饉によって、ヨセフは兄弟たちと劇的な再会をして彼は自分を捨てた兄弟達を養うことになったのです。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45:8)彼の人生は、兄達の思惑に支配されていたように見えますが、全ては神の御支配によるものと告白しています。
 神を冒涜していると議会に立たされたステファノはアブラハム、ヨセフの人生を通して栄光の神を示し、彼自身の歩みと重ねたのでないでしょうか。神の祝福は机上に固定的にあるものではなく、日々新しく神の御声に従う中で人は祝福された存在となっていきます。人は置かれている状況が問題なのではなく、何に支配されているかです。「キリストの平和があなたの心を支配するようにしなさい…」(コロサイ3:15)