恵みと力に満たされた人

使徒言行録6章8~15節

佐々木良子牧師

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。…また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)使徒言行録の主題です。本日登場するステファノは正にこの御言葉通りに生き抜き、その最期は命をも奉げた人で、キリスト教における初めて殉教者でした。彼は「信仰と聖霊に満ちている人」「知恵と御霊によって語る」(6:5,10節)人物でしたので、強烈な敵意や批難の中にあっても「…その顔をさながら天使の顔のように見えた。」(15節)と記されています。
 聖霊による力とは勿論神からくるものです。神の力は自己を与える力、右の頬を打つものに左の頬をも向けさせる力で、正にイエス・キリストの足跡を見れば一目瞭然です。それに比べて人間の力は、往々にして自己を主張し自分の思いを通そうとして人をねじ伏せる一面があります。本日の箇所は神の力と人間の力が対比されています。
 ステファノに対してあるグループは福音理解について、議論を持ちかけましたが(9節)、歯が立たず廻りの者をも巻き込み偽りの証言をさせました(10~11節)。そうして力で貶めようとしましたが、ステファノはものともせず聖霊に満たされ平安の内にいました(15節)。ステファノという名前は「王冠」という意味で、正にイエス・キリストの栄冠をいつもかぶせて頂いた人物です。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ…キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12:9)キリストが我が内に宿られる時、キリストの力がこの私に宿ります。神の霊が吹き込まれ、私の力がキリストの力へと交換されます。人は弱さの中にあるともがき苦しみますが、ステファノは心から主イエスに信頼し聖霊に満たされていましたから(1節)、窮地に追いやられてもさながら天使の顔のような輝きを放っていました(15節)。
 聖霊の満たされるとは、一時的な感情の高揚ではなく神の御支配の中に身を置き、神の力に生きたいという願いです。ステファノは特別な人ではなく、仲間から選ばれた信徒の一人でした(5節)。神の力に生きようとした彼は恵みのうちに成長し神の御心を行い、試練を通りキリストの聖に与る者とさせて頂きました。神の力に生きたいと願うなら誰でもそのようにして頂けます。

みんなで担う

使徒言行録6章1~7節

佐々木良子牧師

 初代教会の様子を見ますと、教会が立ち上がっていく時に次々と試みに遭いますが、主なる神を第一とする時、問題をも突き通していく神のお働きがあることを知る事ができます。「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えられて与えられる。」(マタイ6:33)との如くです。
 「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(7節)と、問題の解決の後には、主イエスの弟子たちを迫害し、誰もが救われる事を想像する事ができなかった多くの祭司たちが信仰に入った事が記されています。
 当時、主イエスの弟子たちは身よりのない人々を支えていましたが、神の御言葉を伝えるよりも奉仕する為に割く時間が多くなっていました。それでも施しを受けている人々から苦情が出る状況になっていたのです(1節)。
 そこで弟子たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろして、食事の世話をするのは好ましくない。」(2節)と、声を上げました。人は問題が起きると、とかくその問題に対して嘆き悲観的になりがちですが、彼らは教会の本質に目を向けたのです。教会の生命線は神の御言葉が語られ、真剣に聞かれるということにあります。「神の御言葉を大切にしたい」という思いと熱意が、人を変え、人を育て、教会を形成していきます。勿論、奉仕する事を否定しているものではありません。時として奉仕に忙しくなり過ぎて、教会本来の本質を見失ってしまい、本末転倒になってしまう危険性があります。彼らは教会形成を弁える弟子として訓練され、又、成長していたのです。
 こうして「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(4節)神の御言葉を中心として、ステファノを初めとする人々が奉仕を分担しながら、組織としての教会が徐々に建て上げられていきました。反キリスト勢力にあった祭司たちまでもが救われるという神の御業も起きてきました(7節)。
 この後、時代が過ぎパウロはエフェソの教会の長老と別れる時に「…神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(20:32)と語りました。この恵みが維持されながら世界中に教会が生まれていきました。私たちの教会もこの恵みが受け継がれ担っている最中です。

復活の体とは

コリントの信徒への手紙一 15章35~49節

佐々木良子牧師

 人は人生の最期について考えた時、不安や恐れを覚えたりするものです。しかし信仰者は、生涯のゴールは死んで終りではなく永遠の命・復活の体を頂くことを信じていますから、むしろ人生の終りに希望をもって歩んでいます。イエス・キリストのご復活を「私のため」と、感謝して受け止めているからです。復活とは理論的に証明するようなものではなく、信仰をもって受け止める事です。そこにこそ大いなる慰めと希望の源があります。
 イエス・キリストのご復活については四つの福音書に記されていますが、私たちの復活とはいかなるものでしょうか。信仰者は肉体において死んで葬られても、この世の終り、イエス・キリストがもう一度来られる再臨の時に、復活し永遠の命を生きる新しい体を与えられると、パウロはコリントの信徒への手紙一15章において語っています。
 本日の箇所は復活の体の説明として植物、動物、天体に譬えて説明しています。私たちの体は植物のように地上の体は朽ち果てますが、朽ちた植物から種が落ちて目を出す如く又、新しい命が各自、独自性をもって芽生え復活します。復活の体は、今、私たちが持っている罪の本能に支配された卑しい肉体ではなく、朽ちることのない神の栄光に満ちた命へと変えられます。
 では、虚しく朽ちていくだけの命かというと、決してそうではありません。「天上の体と地上の体があります。しかし、天上の輝きと地上の輝きとは異なっています。」(40節)天上の輝きとは異なりますが、この世での輝きもあります。主イエスを模範として助け主・導き手として、又、服従すべきお方として仰ぎ見続けるならば、私たちの中に主イエスの御姿が造られていきます。そうしてやがて終りの日に、永遠の命・復活の体を頂いて完全に栄光の姿へと変えられていくのです。今、私たちはその途上、現在進行形の状態です。
 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えても、『内なる人』は日々新たにされます…」(コリント二4:16)人間の肉体は確かに日々衰えていきますが、信仰者はその生涯を通して日々新しく成長させて頂けます。未だに私たちの救いは完成していませんが、もう既にゴールに向かって栄光から栄光へとイエス・キリストとお姿に変えられて復活の命の準備は日々着々と為されています。これが信仰者の幸いです。

イエス・キリストの復活

ヨハネによる福音書20章11~18節

佐々木良子牧師

 安息日が終わって日曜日の早朝、マグラダのマリアは主イエスに香油を塗るために墓に行きましたがご遺体はどこにもありません。かつて彼女は「7つの悪霊」に苦しめられていましたが、主イエスの憐みによって救われた人で、いわば主イエスは命の恩人です。せめて最後は丁寧に葬って差し上げたい、という願いだったと思いますが、そこには主イエスはおられませんでした。
 「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか・・・」(15節)主イエスは十字架において死なれましたが、復活して今も生き続け、働き続けて、この世界を導いておられますが、彼女にはこの時には理解できませんでした。
 「・・・どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(15節)ユダヤ人の指導者たちに十字架につけられた主イエスの遺体を引き取ると言う事は、自分が矢面に立たされ命の保障すらないような無謀ともいえる行為です。しかし、かつて主イエスに深く愛され救われた彼女は、その愛にお応えしたいと願ったのです。その時、「マリア」と、復活された主イエスが声をかけてくださいました。その瞬間、これまでの絶望と悲しみに打ちひしがれていた重い扉が開かれ、主イエスの復活を知る事となったのです。自分の命さえ惜しまない彼女の愛に、主イエスが応えてくださいました。もう決して主イエスから離れまいと思ったことでしょう。しかし、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい・・・」(17節)と仰せになりました。復活の主に出会うということは、目に見える主イエスにすがって終りではなく「わたしは主を見ました。」(18節)と、復活の証人として遣わされてスタートすることです。
 人は愛する人の死に直面した時、悲しみと絶望の中に追いやられ、信仰も暗黒の中に葬られてしまうような状況に陥ります。しかし、主イエスの憐みを受け救われた者は必ず主イエスが復活された如く、信仰も又、復活させてくださると同時に新たな使命に生きるものとさせて頂けます。
 私たちの信仰は何とも危ういもので、復活の主を見失い何度も絶望の淵に佇むことがあります。しかし、「マリア」と声をかけてくださったように幾度も私たちの名前を呼び立ち上がらせてくださいます。復活の主の恵みはそこに留まることなく、常に先へ先へと導いてくださり「わたしは主を見ました」と栄光の主イエスの証し人として遣わされていきます。それが神の御心だからです。