エジプトに行かれたイエスさま

マタイによる福音書2章13~15節

 喜ばしいイエス様のご降誕の直後、ヘロデ王は自分の権力を守る為に生まれたばかりの主イエスを抹殺しようと企み、ベツレヘム周辺の2歳以下の幼児を殺害するという残酷な出来事が起きました。主イエス一家は神の導きによりエジプトに避難し難を逃れましたが、何とも理不尽な事です。後に人類の救い主となる主イエスの命は尊く、他の子どもたちの命はどうなのか・・・? 様々な疑問、そして神が全能であるなら、何故他の子どもたちを助ける事ができなかったのか? と問いたくなる場面です。しかし、分かっている事はそのような中にあっても、神の御計画は変わらずに完成に向かって確実に進められているという事です。
 このような不条理ともいうべき出来事は、私たちの人生の最期までの問いでもあります。「なぜ」と問う時、そこには答えを見出す事は不可能です。しかし、その中で懸命に問い続け、生き続き抜こうとする時、不条理は神に見放された恵みのない状態であると思いつつも、神ご自身がその不条理の真ん中にご自身が身を置かれた神であり続けたという事を知る事となります。
 イエス・キリストは、十字架に架けられた時「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34節)と叫ばれました。見捨てられる筈のない神の子が見捨てられ、救い主であるその本人が救われなかったのです。これこそ「不条理の極みの只中」にご自身の身を置かれたのです。だからこそ、私たち自身が自分の事を思う以上に私たちの事を思いやり、いと近くで支えてくださる事がおできなる唯一の御方です。主イエスのご降誕の意義は「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と共に「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)です。正に理不尽な、不条理のご中心に主イエスは確かにおられ、全地全能の神なのです。悲しみ、苦しみの只中にあるあなたを決して見捨てずあなたの傍らに主はおられる。それがクリスマスのメッセージです。
 信仰とは現実の不条理が解決される策を伝授するものでも、労苦をしないで生きるための方策でもありません。如何なる不条理な世であっても、そこにキリストがおられるという事実と共に生き抜く事ができる力が信仰です。
 1年を終え、益々主なる神を仰ぎ見、決してこの私を見捨てない主イエスを信じて歩んでいけるように祈りつつ、新しい年を迎えたいと願うものです。

ベツレヘムの星

クリスマス礼拝

マタイによる福音書2章1~12節

 「神は、その独り子を与えになったほどに、世を愛された。・・・」(ヨハネ3:16)クリスマスの出来事を端的に言い表しています。全ての人々の罪を、死から救い出すために、神の最愛なる独り子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。神の変わらない永遠の愛を、神ご自身の全ての全てを、イエス・キリストを通して与えてくださったのが、クリスマスです。
 しかし、このように与えられた素晴らしい喜びにこの世の人々は無関心でした。それどころかそれぞれの理由は違いますが、ヘロデ大王、エルサレムの人々は恐れていました。一方、ベツレヘムに住民登録に来ていた人々は、飼い葉桶の幼な子イエスに誰も目を向ける事なく、宿屋の中で共に賑やかに過ごしていました。共通する事は誰もが皆、自分の事に精一杯で神の方に心を向ける事をしようとはしませんでした。いつの世も同じです。
 そのような中で占星術の学者たちは、旧約時代の神の約束を信じて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)、と東の国から星を頼りにはるばるやってきて、主イエスの御誕生を心から喜び祝いました。旅するに当たり自分の都合もあったでしょう。しかし、自分達に与えられた救い主に心からお逢いしたいという一心で星を頼りに暗闇に飛び出たのです。旧訳聖書に登場するアブラハムに神は「主は外に連れ出して言われた・・・」(創世記15:5)と、暗闇へ連れ出し星を数えさせました。
 私たちもベツレヘムの星=神が見せてくださる喜びが既に与えられています。それは人と群れている明るい中心部分ではなく、暗闇の中へ、外へ外へと人と反対方向に向かっていく旅路です。神と出逢うという事は、ある意味で人と足並み揃える事ではありません。今、暗闇の中を一人孤独に歩いておられる方もいると思います。しかし、現実がどんなに暗く恐れや不安があろうとも、その先には救い主イエス・キリストが同じ暗闇の中で待っておられます。その為に大勢の人がいる暖かな明るい宿屋の中で誕生されたのではなく、誰にも顧みられない飼い葉桶にお生まれになりました。長い人生の中でともするとベツレヘムの星を見失う時もあると思いますが、おいやられた所で神の愛の結晶である主イエスがおられから生きていけるのです。それがクリスマスの約束です。

ヨセフの決断

マタイによる福音書1章18~25節

 人生はある意味で小さな決断、一生一大の大きな決断等の連続とも言えるのではないでしょうか。クリスマスの出来事はマリアとヨセフの戸惑いの中での大きな決断の出来事でした。突然、マリアの許嫁であったヨセフに、婚約者であるマリアが既に身ごもっているという衝撃的な事件が襲いました。まだ二人は公に夫婦と認められない関係でしたから、当時の慣例でいうならマリアは「姦淫の罪」で死刑の判決が下されます。ヨセフは当然悩みマリアにとっても、又、自分にとっても最善はひそかに離縁する事と決断しました。しかし「・・・恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである・・・」(20節)との神の御声を聞き、自分の思いを断ち切り、これからの全ての事は神に従う決断しました。
 旧約聖書のイザヤ書11章には「エッサイの株・根」、新約聖書のヨハネの黙示録には「ダビデのひこばえ」と表現されている言葉があります。これは重要な意味を持っています。「切り倒された株や根を土台とした所に、神の御支配の祝福が芽生えていく」という理解で、クリスマスの出来事を示しています。イエス・キリストのご降誕により、罪の暗闇の世界から、救いの光の世界へと歴史が動きました。ひこばえ=新しい若芽が育つには、先ずそこに場所を占めている最初の木、人間的な思いと生き方が切り倒されなければなりません。正にヨセフは自分の思いが切り倒され、神に服従していく決断をしたのです。このヨセフの決断によって全く新しい時代、主イエス・キリストの救いの時代が始まりました。
 クリスマスの意味は「神は我々と共におられる」です(23節)。原語では「一緒におられる、神が」となっており、私たち一人一人の最も近い隣人となる為に、主イエスがお生まれになりました。誰でも自分の事は自分が一番知っていると考えるものですが、果たしてどこまで分かっているでしょうか? 自分自身以上に主イエスはもっと近くに来てくださいました。つまり、一番ご存知なのは主イエスなのです。私以上に私を知っていてくださる神に向かって窓を開けること、自分の常識、経験、今迄の良い事も悪い事も打倒されて新しいスタートを始める事がクリスマスの祝福です。ヨセフは自分以上に自分自身の事を知っておられる、共におられる神に全てを託したのです。もうすぐ訪れる今年のクリスマスにおいて、切り倒されるべきものは何でしょうか? 自分の思い、考えが切り倒されて、戸惑いの門をくぐるとそこには神の憐れみの世界、クリスマスの恵みが待っています。

耳にすると実現する

ルカによる福音書4章16~21節

 旧約の時代には「ヨベルの年」と呼ばれている、50年に一度「主の恵みの年」が設定されていました (レビ記25章)。奴隷となって捕われている人々、借金で苦しんでいる人々、差別などを受けている人々が無条件で軛から解き放たられ、格差が正される恵みの年です。全てが帳消しにされ皆と平等に同じスタートラインに立てられる唯一の希望の時ですから、どんなに待ちわびた事でしょう。
 このような解放の恵みの出来事は旧約時代の人々だけではなく、キリストのご降誕によって、今の私たちにも既に実現しています。しかも50年に一度という限定ではなく、天国に帰る迄永遠に与え続けられています。「・・・主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(18節) と、主イエスは仰せられます。
 人は皆、罪人で神と敵対し罪の奴隷として捕らわれの身ですが、神は主イエスを十字架につけるまで私たちを愛され、キリストの十字架を信じる者を無条件で罪を赦し、神の栄光を受ける者としてくださいました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ3:24)罪の縄目から解かれ、あらゆる抑圧から解放され神にある自由を頂いています。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4:21) 聞くとは、聞いたみ言葉を通して神の出来事が起こるように聞くことで、御言葉を聞いたように従って行動するという事です。受胎告知の際「・・・お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)、との御言葉を思い起こします。マリアの如く人間的な常識、経験を超えて従う事が、聞き従うという事で、そこらから御言葉による新しい祝福の世界が開けて行くのです。
 キリスト者は無条件に一生涯、神による罪の解放の宣言を聞き続けますが、同時に神に対して、負債=愛の借金を抱え続けていきます。故に今度はこの愛を神に返して行くように生きるのです。神の愛には感謝できますが「あの人は赦せない」では赦しの御言葉を聞いたとは言えません。内にある自分の愛では無理ですから「私たちの内に住まわれる聖霊」に依り頼み(テモテⅠ1:14)、神の愛が実現するように祈るのみです。その先にはクリスマスの祝福があります。

クリスマスを待ち臨む

イザヤ書59章12~21節

 イスラエルの民は神に背き続けた結果、敵国バビロニアに滅ぼされ連れ去られてしまいました。やっとの思いで帰還した人々が神殿を再建しようとしますが、エルサレムは廃墟となり、嘆きだけがそこにありました。光を求めれば求めるほど現実の暗闇が浮き彫りにされ、見えるのは閉ざされた世界で「何故こんな世界に・・・」と、闇に閉ざされている現実に怒りと苛立ちの声が渦巻いていました(9,11節)。
 しかし、そのような嘆きの内にこの暗闇は誰のせいでもなく、自分達の罪であった事を示されたのです。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く・・・わたしたちは自分の咎を知っている。・・・主に対して偽り背き・・・」(12~15節)と、神に背いて歩み続けた自分達を知り、嘆きから神に対して祈る者と変えられていきました。このように神と向き合った時に人は変えられていきます。エルサレムの廃墟は、神に背き続けてきた自分達が神に立ち帰り悔い改める為であったと気づかされ、神側に身を寄せる者へと変えられていきました。人が神の御前に出る事、これこそが神が望んでおられる事です。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば・・・」(ヨハネの黙示録4:20)と、神は今も私たちを待ち続けておられます。
 神との関係の破れについて人間側は嘆くしか為す術はありません。しかし嘆きがあるからこそ人は神に赦しを乞い、救いの道を御手に委ねざるを得ません。その時に神が行動を起こされます。「主は人ひとりいないのを見、執成す人がいないのを驚かれた」(16節)「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。」(20節) それは、一時的な神の憐れみではなく神側からの永遠の契約です。「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。・・・今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる」(21節)無力で自分では何もできないと嘆いている人間の元に救いの契約が与えられています。嘆きの内にあるからこそ救ってくださる神に依り頼むだけです。条件があるとしたら「悔いる者のもとにくる」と主が言われるごとくです。
 罪との関係はいつも、神の前に神との関係の悔い改めです。ダビデ王は大罪を犯しましたが預言者ナタンに指摘され、「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(詩編51:5)その破れを全て神の御前に差し出し悔い改め、神に執成されながらその後の人生を歩み直し、神に仕えていきました。
 今、私たちはアドベントを迎えていますが、クリスマスは神がこの世に救い主イエス・キリストを送ってくださったという決定的な行動を起こされた出来事です。神と人との間に執成すことのできる正しい人が一人もいないこの世界を憐れみ、救ってくださいました。今年も暗闇の中で罪を悔いる者の元に、光輝く主イエスがおいでになります。