死は勝利にのみ込まれた

コリントの信徒への手紙一15章50~58節

 15章ではイエス・キリストを信じる信仰者たちが、この世の終りの日・主イエスの再臨の時に復活して、新しい体・霊の体を与えられるという、信仰における究極的な希望が記されています。希望の根拠・保証はイエス・キリストのご復活です。主イエスは死ぬべき罪びとである私達の罪を背負って、十字架に架かって死んでくださいましたが復活され、私達の終わりの日に、神が私たちにも新しい復活の命と体を与えてくださる、という約束のしるしです。
 「死のとげは罪であり・・・わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」(56~57節)キリストの勝利は、私達の為の復活です。故に私達もこの肉体の死を越えて神の恵みによって生かされる新しい体・命を与えられるという希望に生きる事ができるようになりました。
 新しい体については「わたしはあなたがたに神秘を告げる」(51節)とあります。神秘とは、人間の知恵・普通の認識や理論を越えたという意味で、復活について理解できるのは信仰によってのみです。復活についての理解は困難を覚え、コリントの教会の中にも死者の復活はない、と主張する人々がいましたが「復活を信じないなら信仰は無駄である。」(15:2~)と、言い切っています。
 信仰の世界は理解できて信じるものではなく、信じる事によって理解していくものです。そうして信じていくうちに徐々に目が開かれて分かっていくのです。信仰とは自分自身の生き方の転換でもあり、決断でもあります。
 さて、全ての人は死を迎えますが、キリスト者は復活されたキリストの御体・霊の体が与えられるという約束です。それは今の体が再び息を吹き返す事ではなく(5:14)、「死んでも生きる命、永遠の命」です。言い換えるならば復活の命は、私達がこの世の命を終えて、死ななくては頂く事ができません。「死」は決して恐ろしい事ではなく、むしろ希望であって、永遠の希望の通過点です。ですから「死んだら生きる」と、死に対して大胆に積極的に向き合う歩みが信仰者の本来の歩みではないでしょうか。神の憐れみによって、肉体の死を越えた所の新しい永遠の希望に向かって歩む事が許されている私達です。
 「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならない…」(58節)この世での苦難は永遠の命へと繋がり、涙を流した分だけ報われて天国に繋がる恵みです。ですから、この命が朽ちて死を迎えるまで喜んで主の業に励んでいけるのです。

キリストの十字架への道

マルコによる福音書15章33~40節

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)神に見捨てられる筈のない神の御子イエスが、見捨てられる直前の絶望と苦しみの叫びです。神というお方について私達が知る事ができるのは、壮絶なキリストの十字架を通してしかありませんでした。
 神だから余裕があって主イエスを十字架に架けられたのではなく、断腸の思いで主イエスと共に耐え難い苦しみを伴っていたのです。キリストの十字架が示すのは、罪びとを救い出したいという痛みを伴った神の愛、神の御心です。
 「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(33節)この暗闇は全人類が神に背いた罪の暗闇で、その絶望が主イエスの壮絶な叫びとなったのです。これは主イエス御自身の恐怖と、私達自身の恐怖の二つの叫びです。主イエスご自身が地獄へ落とされる事への恐怖ではなく、神から見捨てられ、神との関係が切れる事のへの恐怖です。私達が体験しなくてはならない恐怖、絶望を背負って引き受けご自分のものとして体験してくださいました。その苦しみの中で死なれたのです。その直後に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)と記されています。垂れ幕とは人間の罪の為に隔てられていた壁ですが(レビ記16章)、十字架の死によって罪が赦されて、神の御前に出る事が赦され、暗闇から永遠の祝福の新しい世界に私達が招き入れられた、という歴史的な大展開が成し遂げられたのです。
 このように神の愛と神の御心と共に神のお苦しみを知っているにも拘らず、依然として様々な問題の中で襲ってくる苦しみから逃れたいと思う私達ではないでしょうか。苦しみの過程が省略されて、思い通りに幸せな人生を歩む事を最優先するような、良い結果だけを手に入れようとする世界に生きているように思えます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)パウロという人物は主イエスを伝える為に、今迄の地位など一切を失いましたが、キリストの十字架の苦しみに与りたいとまで語っています。労苦を買って出る必要もありませんが、キリストは神の御子でありながら、私達を愛する故に、十字架の苦しみを放棄されませんでした。今、自分達に与えられた苦しみから逃げ出したり放棄しないで歩む為に、キリスト・イエスを知る事を追い求めていくことが私達に与えられています。十字架上のキリストがいつも共にいてくださいます。

萎えた手を伸ばせ

ルカによる福音書6章6~11節

【祈りと試練】 『祈りとは私たちが自分の内に鑿(のみ)を当てて、キリストの似姿を彫りつつあること』であり、『試練とはキリストの似姿・神の似像になるまで神様が私たちを削って下さること』だと言われている。ヘブル書も主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるのだから、主の鍛錬を軽んじるな、主の懲らしめに力を落とすなと記している(12:5-6)。しかし主の与え給う試練は、世界規模の天変地異や大震災から、戦争や内紛、人種差別や宗教迫害、教会の不一致や分裂、会社や学校や家庭内の不和、個人の失業・貧困・病気・怪我・失恋・別離、その他多岐に亘り、信仰の足りない私たちは、時に戸惑い、容易く落胆し、傷付き、疲れ果て、もう二度と傷付くまいと縮こまり、その手は死んだように力を失い、枯れた骨のように萎えてしまうのである。
【萎えた手】 ある安息日に会堂で礼拝する人々の中にイエス様がおられ、右手の萎えている人もいた。「萎えた手」「萎えた」は原語(ギリシャ語)で「クセーロス」といい、「乾いた」「枯れた」「硬直した」「衰弱した」「やせ衰えた」の意。七〇人訳のエゼキエル書37章「枯れた骨の谷」にも同じ単語が使われている。イエス様はその人の背後にエゼキエル書37章の「枯れた骨の谷」の光景を見ておられた。この時、「枯れた骨」は口伝律法に縛られ死人同然のイスラエルの民、そして世界中の亡び行く人々であった。イエス様は右手の萎えている人に「立って、真ん中に出なさい」と言われた(8)。真ん中に立った彼の右手を見た人々は悟った。彼は仕事を失い、今日の食事にも困っている。それでも彼は神に依り頼み、礼拝を献げているのだ。手は萎えたままだが・・・。
【あなたの萎えた右手を伸ばせ】 詩編16:8-11が示すように、右の手は「神との親しい交わり」を意味する。私たちの主なる神は、絶えず私たちの右におられ(つまり弁護して下さり)、私たちが右手を差し出すならば、主は力ある右の御手から永遠の喜びを溢れるばかりにお与え下さるのである。今朝、イエス様は「手の萎えている人」と同様に世界中の人々に、日本の教会に、小松川教会に、そして私たち一人一人に向かって、傷付くのを恐れて縮こまったあなたの右手を、あなたの萎えた右の手を伸ばしなさいと命じておられる。試練を恐れずイエス様の御言葉に信じ従おう!主は私たちの手を元どおりにして下さる!さぁ!右の御手から永遠の喜びをいただこう!ハレルヤ!
【祈祷】 「あなたの萎えた右手を伸ばせ」と命じて下さる主よ、私たちはあなたを信じます。主よ私たちは試練を恐れません。右に在す主よ、どうぞ私たちの手をどこまでも御心のままに伸ばして下さい。永遠の喜びを下さる主よ、どうぞ福音を伝える御手の指先として、私たちを用いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

わたしは何者だ

マルコによる福音書8章27~38節

 ペトロは主イエスに対して「あなたはメシアです。」(29節)と、完璧な信仰告白をしました。他の弟子達は、主イエスを人間レベルの英雄としか認識していませんでしたが(28節)、彼は主イエスをキリスト=救い主、生きておられる神の御子だと、心から称えたのです。しかし、その舌先渇かぬ内に、主イエスの御思いとペテロの思いは致命的にかけ離れ「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)と、主イエスから驚くほどの厳しい叱責を受けたのです。
 事の始まりは、主イエスがこれからのご自身の御受難を、予告された事からでした。「…人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている…」(31節)主イエスの死と復活を耳にした途端にペトロは、神を称える心は瞬間に消え失せ、自分を守る事に走ったのです。主イエスはそこに「サタンの思い」を見てとられたのです。「サタンの思い=悪魔的な思い」とは、主イエスの十字架の御業を妨げようとする思い、自己中心的な思いです。ペトロのように神の事を思わず、人間のこと、自分の事を思っているとしたら、それはサタンの思うままに支配されていく破滅の道以外何ものでもないという事を心しなければなりません。
 そこで主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と仰せられました。ここで強調されていることは、「従う」こと、しかもそれは「イエスの後に従う」ことです。「サタン、引き下がれ」と言われた「引き下がる」という言葉は「後に回る」という意味です。主イエスの前にでしゃばって進むこと、それは主イエスの思いに従うのではなく、自分の思いを主イエスの前において歩むことで、これが私達人間の根源的な罪です。
 「主イエスの後に従っていく」生涯は、死で終わらない、復活に与る道です。従う道は、人を牛耳るものではなく主イエスの十字架と復活の大いなる御業のお陰で、主の後に従うすべての人に罪の赦しと死に勝利された復活の命が約束されている希望の道であり、希望の招きです。私の思いが「キリストの思い」キリストの心に与っていけるのか、それとも「人のこと」を思うか。これは、命か死か、祝福か呪いかほどの致命的な違いです。「あなたはメシアです」と告白しつつ、主イエスの後に従う者には、祝福の道が既に目の前に開けています。

何でもはっきり見えるようになった

マルコによる福音書8章22~26節

 信仰者にとっての祝福の基は、信仰の目が開かれてイエス・キリストのお姿を見ることです。「主イエスと出会った私の人生は満たされ、いつ死んでも良い。」と、賛美したシメオンという老人の事が、ルカによる福音書2:25~32に記されています。彼は救い主にお会いするまでは決して死なない、と聖霊によりお告げを受けていましたが、いよいよ実現し、救い主である幼子イエスを抱き上げ神を賛美しました。「この目であなたの救いを見た。」から長い人生は十分に満たされたので、いつ死んでも良いというのです。救いを見るとは、主イエスの十字架のお姿です。十字架によってこそ自分の罪が示され、悔い改めと同時に罪の赦しが与えられます。故に主イエスとの出会いこそが私達の人生の目標で、同時に神の深い愛と恵みを分からせて頂けるのです。
 本日の箇所は主イエスが盲人を癒やされた事が記されています。しかし、肉体的な癒しだけではなく、神の恵み、つまり神の御業が展開している有様を見ることができるように、主イエスが直に触れてくださいました。彼と同じようにかつての私達は目があっても神の恵みが見えていませんでした。生まれながらの目をいくら見開いても、目にするのは闇の深さだけです。絶望的な闇の中で新しい世界を見る事ができるようになるために、主イエスが目を開いてくださるのです。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24節)主イエスは群衆の中から盲人を連れ出し目に唾をつけ、両手をその上に置かれて尋ねました。しかし、まだはっきりと見る事ができなかったので、再度目に手をおかれました。「…よく見えてきていやされ、何でもはっきりと見えるようになった。」(25節)見えるまで主イエスが私達に触れてくださって、やがて信仰の目が開かれ、十字架の主イエスのお姿がはっきりと見えてきます。そうして、主イエスとの交わりが始まり、信仰の目が少しずつ開かれて信仰が成長していきます。これこそが私達の人生の目標であり、何よりもの慰めと希望です。この経験を毎週の礼拝で体験させて頂いています。
 人は神を信じようとする時、しるしを求めたがるものです(8:12)。しかし、肉眼で主イエス・キリストを見ていても神の深い真理、恵みは見ることはできません。主イエスが手を差し伸ばして触れてくださっておりますから、混沌とした世界に一筋の真実の希望の光が貫いているのが、はっきりと見えるようになったのです。「この目であなたの救いを見た」と告白できる事は感謝です。