4月18日 礼拝説教概要

「どん底に天の門が」 創世記28章10~22節
 兄のエソウと父を騙したヤコブは兄の殺意から逃れる為に、20年の逃亡生活を強いられるようになり、その初日、暗闇の中で石を枕にして横たわっていました。自分を取りまくその場は孤独と屈辱的なものだったでしょう。
 しかし、そのような場所にいる者の傍らにおられる神が「見よ」、と信仰を呼び覚ます言葉を発しております。ヤコブの枕元に階段が天から地に向かって伸びており、神の方からヤコブの元に降りてきてくださいました。神は「努力して私の元に這い上がってきなさい」と、おっしゃる方ではなく、失望と孤独のどん底に追いやられている罪人の現実に下って来てくださいました(12~15節)。混沌とした暗闇から「光あれ」と、光を創造されたように、全てを失くし暗闇の中にたたずみ、これで人生が終わりと思った所に光を放ち、その場がからスタートさせてくださいます。私達も暗闇の中どん底に落とされる時がありますが、そこで神の光を見せて頂き、神と共に歩む事を経験させる為に追いやられます。
 「見よ。わたしはあなたと共にあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束した事を成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(15節)今迄とは違った素晴らしい場所が与えられてやり直すのではなく、恥と屈辱的な忘れたいようなこの地に連れ戻し、その場を祝福して与えてくださいます。弁解の余地のないこんな恥ずかしい所が「ベテル=神の家、天の門だ」と畏れ驚き、仰ぎ見たヤコブです(17節)。畏れと驚きが信仰の喜びです。人生は褒められるような素晴らしい所だけ集めて自分で作り出すのでなく、罪の中で破れ果てて、消してしまいたいような人生を神に回復して頂きながら救われ続けながら、神から与えられるものです。
 主イエスは御自分の事をベテルの梯子と言われました(ヨハネ1:51)。主の十字架という梯子を通して私達は天の国へと招かれています。人が頑張って架けた梯子ではなく、神の方から憐れみとして与えてくださった梯子です。「ここに梯子があるではないか。既に天の門は開いているではないか。」と、全てを失くした者を喜んで迎えてくださる神の愛を知っている私達は幸せです。

4月11日 礼拝説教概要

「主イエスの御声に従う」 ヨハネによる福音書10章1~42節
 私の献身のきっかけは、左遷を経験し、自死寸前に神に引き止められたことにある。直接の召命の御言葉は「私の羊を飼いなさい」 (ヨハネ21:17)だった。主イエスは「私を愛しているか」と3度も問うてから、ご自身の生命と引き替えに守られた大切な羊を、3度も否んだペトロに託された。ここで主は私たちに『主イエスを愛する者』だけが牧会する資格を持っていることを示された。主イエスの羊とは、私たちの周囲で、あなただけが知っておられる迷える魂のことだということを忘れてはならない。
 主イエスはヨハネ15章12節と13章14節で「互いの愛し方」を示された。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15:12)「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)である。この掟のポイントは「わたしがあなたがたを愛したように」である。
 主イエスはペトロだけでなく、裏切り者ユダや民衆、そして敵であった私たちをも愛されて、全ての者の罪を贖うために十字架に架かって下さった。こんなにもですか!というほどに深い愛です。この深い御愛を受けた私たちですから、感謝して、喜びに溢れて、主イエスの羊を飼い、互いに赦し合い、愛し合いましょう。また、私たちは、自分自身が本当に主イエスを愛しているかどうかを確認することができます(14:15)(14:23a)。
 そして、そうするるならば、世の人々にもハッキリと、私たちがクリスチャンであることが分かりるのです(13:35)。私たちも弟子たちのように、主イエスの掟を守り、主イエスの愛にとどまり、主イエスから「私の友」と呼んで頂きましょう(15:10b)。

4月4日 礼拝説教概要 (イースター礼拝)

「喜びの復活」 ヨハネによる福音書20章19~29節
 聖書には多くの事が記されているように見えますが、実は、主イエスが十字架に架けられた事と復活の出来事について集約されているのです。「弟子達は主を見て喜んだ」(20節)と、主の復活は何にもまして主にある平安、喜びと希望、一切の根源です。しかし、疑いのトマスと呼ばれている弟子の一人は主イエスの手の釘跡とわき腹の傷にこだわり、見て触れなければ「・・・私は決して信じない」(25節)と断言しました。疑い・不信の念を抱き主の復活を信じようとしない人間の姿が現されています。「疑い」とは心が分かれる事で信仰の欠如、神への信頼の問題と言われています。
 「戸にはみな鍵がかけてあった」(26節)と、仲間や神をも信じないトマスは心の鍵を作り頑なでした。主イエスは信じる事ができない者を咎めるのではなく全てを御存知で受け止めてくださり、不信の壁を突き破って「あなたの指をここに当てて、私の手をみなさい・・信じない者ではなく信じる者になりなさい」「わたしを見たから信じたのか、見ないで信じる人は幸いである」(27,29節)と今日も語っております。
 神の大きな愛は人間のあらゆる疑いにも優っています。人間の罪の救いの為に自ら犠牲となって十字架に架かってくださった救い主の真実、手の釘跡とわき腹の傷を負ったまま復活されたのがその証拠です。主イエスの復活を信じ、その神の愛を身に受けて永遠の命を頂いているから、困難な中でも希望を持ってそこに踏み留まれる力があるのです。
 不信仰で疑い易い私達に「あなた方はしるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハネ4:48)と、主イエスは語っております。時に応じてその御業を見せてくださいますが、最も大いなる出来事が復活で、主イエスの真実がトマスの信仰を呼び起こさせ「私の主、私の神よ」(28節)と告白しました。私達は今、精一杯の歩みを続けていますが、イエス・キリストの復活の力と命がどんなに大きいと信じているか改めて思いたいものです。

3月28日 礼拝説教概要

「十字架に身を委ねる」 ルカによる福音書23章32~49節
 イエス・キリストの十字架は信仰の中心ですが、本日の箇所には主イエスの十字架の他に二人の犯罪人が十字架に架けられた姿があります。この2本の十字架からも大いなるメッセージが語られています。
 十字架上の主イエスの隣には十字架に架けられるしかない、救われようもない犯罪人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(42節)と、主イエスを信じ、主が神の子キリストである事を確信したキリスト者の姿が記されています。主イエスは私達が神を忘れようとも罪深い人間を覚えていてくださり悔い改めさせ赦しを与えるお方である、これが私達に対する保証であり確信です。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)と、主イエスの執り成しの祈りによって今迄神に顔を伏せていた犯罪人が神に立ち帰った瞬間でした。主イエスは死の間際まで神に従い通し、御自身を苦しめ罵る罪人達の為に愛を与え続けられたその真実なお姿に、犯罪人は主を信じる者に変えられました。この方が唯一赦してくださるお方、こんな自分が赦されるなら赦されたい、と願ったのです。キリストは罪人を滅ぼすのではなく悔い改めを起こさせ、御自身を犠牲にして最後迄その愛を与え続けて下さるお方です。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(43節)どんなに神から離れていようともキリストの愛の及ばない所はありません。この犯罪人は差し出された神の愛を感謝し、その身に受けながら残り僅かな地上での人生を十字架上に委ねました。既に十字架がこの上ないパラダイスに変わりました。ここには目に見えない神の赦しの世界・パラダイスを見た犯罪人と、主イエスを罵り裏切る罪に染まった世界しか見えない群衆の姿があります。神に覚えられている私達は罪の世界から神の赦しの世界に招かれている事を聖餐式毎に確信して感謝しながら歩んでいます。