「神に知られている確かさを知る」創世記5章21~32節
創世記5章には驚く程の長寿が記されていますが、神が天地創造されて間もない時代だったからです。神が人を創造された時は極めて良い状況で死は想定されていませんでしたが、アダムとエバの罪の結果、人は「死」という問題を背負っていくようになり、時代と共に人の寿命は短くなってしまいました。
詩篇90:10では人生70年程と、現代の状況になっています。生命力が減るという事は罪と関係しています。所がエノクという人物は「神と共に歩み神が取られたのでいなくなった」(24節)。「信仰によって、エノクは死を経験しないように天に移されました。神が彼を移されたのでみえなくなったのです。移される前に神に喜ばれていたことが証明されていたからです」(ヘブル11:5~6)と記されています。エノクの如くに神と共に歩む者は、神に喜ばれ善き者とされて、死を乗り越えて永遠の命を頂く確かさを保障されるという事です。
死の問題を人は解決する事はできませんが「神と共に歩む」事においてのみ人は死を乗り越えさせて頂けます。神と離れ背いて歩く人生が「罪」なのです。
そもそも人は神に似せて造られ、神に応答する特別な存在ですから、神に顔を向けて神と共に歩む事が自ずとできるように造られており、死んでからも神の祝福が保証されている私達です。
ですから神なき人生は不安となり、何とか未来の保証を自分で得ようと必至になり疲れ果てるものです。
人は自分で開拓して必至に人生を歩むものではなく、神に導かれながら歩んでいくのが本来の姿ですから、神に向き合っている限り、思い患いや悩みから解放され神に喜ばれる者とされていきます。私達はそのような神を知っていて、神にしがみついているつもりですが、神の方がこの手を既に握りしめてくださっています。「今は神を知っている。いやむしろ神から知られている」(ガラテヤ4:9)。私達が信じ慕っている神は、神御自身の方でご自分の元に引きよせてくださり、やがてエノクの如くにその手で天に引き上げてくださいます。神と共に歩む事は天に向って祝福の道を歩むという事です。感謝です。
月: 2009年7月
7月12日 礼拝説教概要
「いつまでも望みをおく」 詩編40:1~18
⑴ある心理学者が「朝、目を覚ますとき真っ先に思う事があなたの本音です。」と語っておりました。「本音」は、兎角、マイナスイメージのことが多いものですが、信仰に生き、主を信頼していると言いつつも、本音の部分で不信仰な言葉や思いが生じてくることを否む事はできません。何を私達は本音の部分においても真の希望としているかを今朝の箇所は問います。
「ヤベツの祈り」という世界で800万部発行されたベストセラーがありますが、この本が結論的に勧めていることは、遠慮することなく、「神様、私を祝福してください」ということでした。主は恵みを求める者に恵みを与えてくださるお方です。けれども、この恵みは決してご利益的に与えられるものではありません。祈りと御言を通して主が示してくださることは、恵みに与るのに相応しくない罪ある自分自身の姿です。しかしこのことは非常に大切なことです。神が祝福を与えようとするのは立派な人物ではなく、己が罪に泣く人です。ですから祝福を求めようとするものは、本来ならば自己中心である訳はありません。自分の罪を示され、それを認め、悔い改めるときに神の祝福が与えられるのです。「神様、今日の私を祝福してください」と祈る後に、「このような罪人ですが」と加えるのが、更に正しい在り方であると言えます。
⑵絶体絶命の状況の中でダビデが行ったことは、讃美と祈りを主に献げることでした。使徒言行録16章に出て来るパウロもシラスも同様でした。結果、彼らは牢獄から出る事ができました。それだけでなく、その結果、責任をとって自殺しようとした二人の看守のみならず、彼らの家族も救いの恵みに与ることができたのです。
ダビデは「主にのみ、わたしは望みをおいた」(2)と告白しました。この主はいつもでも私達にとっても望みであり、救い主でもあります。そしてこのお方は、ダビデ同様に、滅びの穴、泥沼から私達をも救ってくださるお方です。
7月5日 礼拝説教概要
「どうしてと何故思うのか」 創世記4章1~16節
神によって創造された同じ人間でも、生まれながらに不公平や不条理を覚える私達です。農夫であるカインは神に彼の土地の産物を献げ、牧羊者アベルは羊の群れの中から肥えた初子を神に献げました。しかし、理由は何も記されていませんが、神はアベルとその献げ物に目を留められました(2~5節)。その事でカインは激しく怒ったので、神は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか・・・」と問い正しました(6~7節)。これは示唆を含んだ問いです。
献げ物は神の恵みの大きさに対して精一杯献げるものですから、自分に対する神の祝福が分かる人は、喜んで最善の物をお献げします。カインは果たして精一杯感謝と喜びを持ってお献げしたでしょうか?もしそうであれば顔を上げて神に「どうして目を留めてくださらないのですか?」と、問う事ができた筈です。後ろめたさがある故、神に問う事なくその怒りをアベルにぶつけたのでは、と神の言葉から推察されます。
自分自身にも神にも心を堅く閉ざして、ついにアベルを抹消してしまいました(8節)。罪を犯す時は心を閉ざす時です。悔しさも怒りも神に向っている内は必ず解決はあります。
ヨブという人物はこれでもか、という程の不条理を味わった人ですが、困り抜く経験を通して涙を流しながら徹底的に神に問い続けた結果、全ての解決が神から与えられました。主イエスも十字架にお架かりなる前に「なぜ私をお見捨てになるのか?」(詩編22篇)と神に問いました。徹底的に「どうして?」と神に訴え続けた所に、答えと勝利があります。そして同時に神の深い御旨に触れて、感謝して人は生かされていくのです。
カインは罪を犯した後「私の罪は重くて負い切れない」と、やっと心を神に開きました。神は罪人の印をつけられましたが、神のものでもあるという印でもあります。神から捨てられながら同時に神から目を留められているカインの姿は私達の姿でもあります。罪を犯しつつも尚、生かされて神に保護され、赦されながら変えられていく事に感謝しながら歩んでいる私達です。
6月28日 礼拝説教概要
再臨 「イエス様がおいでになる時」 ペトロ第二3章1~14節
毎週の礼拝毎に「教会は公の礼拝を守り…主の再び来りたまうを待ち望む」と日本基督教団信仰告白をしています。教会は主イエスが再びこの世においでになる事を待ち望む群れであると言えますが、心から待ち望んでいるでしょうか。
この世の事に時を費やし今の生活が全てになり、キリストがおいでになる事を待ち望まなくなっている現状のようです。しかし主の再臨は「盗人のようにやって来る」(10節)とあるように、いつ起きるかわからない再臨の時に裁かれないように準備が必要です。
旧約の時代、ノア一族以外は不信仰により、洪水によって滅ぼされ.た事実を忘れてはなりません。今度は水ではなく火によって減ぼされる、と警告しています(7節)。しかし神は減ぴを目的としておられるのではなく、全ての人がキリストを信じて救われる事を願い忍耐して、世の終わりを伸ぱしておられます(9節)。神の救いが完成され、人の罪による混乱が全く克服される事を待ち望んでおられます(13節)。これが本来あるぺきこの世の姿です。
当時の伝道者パウロも再臨は近い、と信じていましたが現代も成就されていません。神のもとには一日は千年のようで、千年は一日のようですから(8節)、時も思いも生活も神の標準に合わせなければならず、具体的にきよい生活を送る事が求められています。(11節)。主イエスを信じて救いに与ったら、きよめられてそれに相応しく励む事ができるように整えられています。「神が前もって準傭してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その良い業を行って歩むのです」(エフェソ2:10)。
善い業ができる為に私達は救われています。ですから罪の贖い主である主イエスと結ばれた人は、まっすぐにこの世の雑事を突き抜けて、再臨の準備をして行く事ができます。
信仰に生きるとは、悔い改めた時に神がきよめてくださり、それによって主イエスの前に立つ事ができるという確信を持つ事です。弱い私達を強めてくださる神の業によって、再臨をお迎えする事を喜びとしたいものです