2月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師

「行き着く場所」 ローマ信徒への手紙12章1節~8節
 イエス・キリストは私達の罪から救い出す為に苦痛の中、十字架にお架かりになり、その命を献げてくださいました。その犠牲に応える為に自分の身体を献げ(1節)、神から託された使命を全うするように、と記されています(6~8節)。キリストに結ばれている私達は神に対して特別の働きがあり、その為に全ての人に賜物が与えられています(4~6節)。ですから賜物を自分の楽しみや名誉の為に用いるのは目的が違います。
 奉仕等の働きは神に向かって成されるものですから、人の様子を見てするものではなく、他人がどうであれ、神の恵みに対して感謝と喜びを持ってお献げする事が、神の御心です。隠れた事を見ておられる神が報いてくださり、答えてくださいますから、右の手にする事を左の手に知らせる必要はありません。旧約聖書のネヘミヤ記に神殿建築の際に携わった人々とその働きが忠実に残っています。私達の奉仕もこのように天国に記されていますから、何という感謝な事でしょう。
 信仰の喜びは十字架に結び付く献身を通してのみです。私は信徒の方々から多くの事を日々教えて頂いておりますが、我が振りを教えられのは、無言の内に陰で一生懸命、神にお仕えしておられる信徒の方々の後ろ姿です。その背中を見せて頂く度に、いつも神から「あなたは本当に神に教会に仕えているか?」と強烈に問われます。そうして、今一度新たな思いで神と人の前に立たせて頂いております。そのような後姿に牧師は支えられ、教えられて成長させて頂くのです。このようにして関係を結びながら、信徒の方も牧師も共に自分の限界を超える働きをさせて頂いて、教会は祝福され前進していくのだと思います。共に献身の中で喜び、感動を頂きながら成熟させて頂き、行きつく場所は更なる神の恵みの元に置かれます。
 このように賜物を持って、犠牲をもいとわず積極的に信仰生活を目指すには、慎み深さが必要であると記されています(3~5節)。どのように大きな働きに見えようが、他の人と共に自分も用いられているに過ぎず、キリストの体の一部としての働きでしかない、という事を弁えていないとならないとあります。多くの肢体の一つの働きに担わせて頂いている、という認識が慎むという事です。お互いが他の支えとなって、この身を献げながら人をも生かしていくのが教会です。共にその使命を全うしていきましょう。

2月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師

「惑わされることなく」 マタイによる福音書24:1~14 
⑴主イエスは「この世の終わりがある」ことを明言されました。そしてそのことに伴い様々な徴が現れることを語られました。しかし大切な心掛けは、「惑わされないこと」いうことです。また主イエスは殊更に不安を与えようとして語られたのではなく、「世の終わり」は、「救いの完成の時」であることを語っておられます。この神が定められた最後の到達点を見ずに、社会的環境を通して現れる世の終わりの徴だけを見るならば、人は絶望せざるを得ません。
⑵人は不安を抱くどの時代においても確固たる寄り所を求めているものです。ガリラヤという田舎から出て来た主イエスの弟子達の目には、エルサレムの神殿は実に荘厳で、頼りがいのある存在でした。ところが主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。弟子達には不動な存在に見える神殿が崩壊するなどということは、想像すらすることのできないことでした。そのような彼らに対して主イエスは「これらすべての物を見ないのか」(2)と語られました。
すなわち「あなた方は本当のものが見えていない、本当に寄り頼むものは何か」と問われたのです。
⑶主イエスは終末に伴う6つの徴について触れられました。①「わたしがメシアだ」と、惑わす偽者の出現。②戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くこと。③民同士の敵対や飢饉、地震。④信仰故に殉教者が起こること。⑤つまずき、裏切り、憎しみ合いが起こること。⑥不法がはびこり、愛が冷えること。いずれも私達の置かれている現実です。真面目に生きようとする者が馬鹿を見るような現実、人を愛そうと思っても、必ずしも愛をもって応えられるわけでもありません。むしろ善をもってした業が、悪意をもって応えられることすらあります。結局これらの徴が現れる先には何があるかと言うと、刹那的な生き方と破滅でしかありません。この先世の中はどうなってしまうのか、誰もが不安を抱いております。
⑷結論は全世界に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来る、ということです。預言者エゼキエルは神殿と神の都エルサレムから主の栄光が去っていくことを霊の眼をもって見ていた人物でした。しかしその彼は‶この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。″と最後のエゼキエル書48:35に記しています。すなわち失望するような中にあっても、信仰の眼が開かれている人は、臨在の主を見、その回復を夢見、真に寄り頼むべきお方はどなたであるかを悟らされ、そして魂の救いのために、御国の福音を宣べ伝える使命に生きることができるのです。