「問うことのできるお方」
ローマ信徒への手紙13章11~14節
「夜は更け、日は近づいた。」(12節)と記されています。近づくとは、将来の事態を先取りして生きる姿勢を示します。暗闇の只中で朝を待つような歩みをせよ、という事です。人生暗闇、と思ったらそのような歩みしかできず、その結果が「酒宴・酩酊、淫乱・好色、争い・ねたみ」(13節)です。朝を待ち望む事ができない故に、現実逃避や欲望に走ったり、争いの中、人の足を引っ張り、果ては一緒に落ちていきます。そこには自分の存在や生きる価値を見出す事はできず、意味のないつまらない生き方をせざるを得ません。その誘惑に巻き込まれない為に「闇の行いを捨て、光の武具を身につけましょう」(12節)とありますように、朝に向かう生き方、つまり神の光によって整えられて歩んでいかなくてはなりません。私達が光の中で生きる事ができるように、イエス・キリストが十字架に架かってくださり、既に勝利を勝ち取ってくださっています。
しかしあまりにも闇が長いと、この暗さに呑み込まれるのでは、と不安になりますが、私達には「本当に朝が来るのか?」と問う事ができる神がすぐ傍らにおります。「今は夜の何どきか?」「夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ。もう一度来るがよい」(イザヤ21:11~12)と、その度ごとに神の前に出て何度でも尋ねなさい、とおっしゃっています。漁師ペトロ達が何度網を下ろしても魚が取れなかった時、主イエスは彼らに沖に漕ぎ出して網を下ろしなさいと指示されました。彼らはそのお言葉に従った時、想像できない程の魚を収穫しました。一度で駄目なら更にもう一度、何度も何度も、これでもかという程、神に向き合った時、初めて私達は不安の中から確信を頂く事ができます。諦めずに神に尋ねながら光を求めていく生き方が信仰の歩みで、それは必ず朝に繋がっていきます。
私達の誘惑は暗闇の中にどっぷり浸かってしまう事です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)と記されています。勝利は決定的ですが、私達は絶えずキリストと共に、闇からの誘惑と闘わなければなりません。その力も失せてしまった時「朝は本当に来るのですか?」と神に問いつつ、諦めず歩んで参りましょう。「主の慈しみは決して絶えない、憐れみは尽きない。それは朝ごとに新しくされる」(哀歌3:11~23)
月: 2009年1月
苦難の中の慰め コリント2 1:3~10
⑴
「わたしたちは神に希望をかけています」(10)を2009年の教会標語とさせていただきました。この言葉は様々な苦難を通して体験的に習得したパウロ自身の確信であると共に、キリストに在る私たちの確信でもあります。パウロは苦難が何故与えられるかとの疑問に答えております。その理由は苦難を通して神からの慰めを得た私達は、その慰めをもって同じ苦難にある人に慰めを与える者とさせていただくために、神は敢えて苦難を私たちにお与えになられるお方であるということです。
⑵
パウロは神よりの慰めをキリストの関連において述べようとします。(5)私たちが神よりの慰めが与えられ、失望せざるを得ない状況に陥りつつも、何故希望をもって生きることができるかと言うと、キリストが私たち罪人のために十字架上に命をささげ、苦しんでくださったからに他なりません。どのような苦難であれ、どのような深刻な問題を抱えていようとも、それに優るところの神の慰めがキリストを通して与えられるというのが、パウロ自身経験を通して与えられた確信でした。
⑶
教会とは慰めの共同体です。精神科医で牧師であられる山中正雄先生は、ストレスに打ち勝つ方法として、第一に「休養」、第二に「静かな心で神に対すること」、第三に「同じ使命を持つ仲間を発見すること」を挙げておられました。世の中には孤独な人が沢山おられますが、しかし教会には仲間がいる、共に信仰生活を続けている人々がいる、それを確認することによって、新しい状況に対応する力が与えられるのだと言うのです。
⑷
パウロにとっての希望は死者さえを復活させてくださる神にありました。ある聖書研究者によると達磨の原型は、主イエスの復活を信じることの弟子トマスであると言うことでした。あの達磨から引き出すメッセージは「七転び八起き」です。それが事実ならば実に信仰的な意味合いが込められています。トマスは信仰的に躓き、絶望を経験しました。そして主イエスを三度も「知らない」と否定したペトロに復活の主イエスが現われ、三度、「あなたはわたしを愛するか」と問われました。傷を抱いていたペトロに対する赦しの招きであったと共に、主よりの慰めを頂いた出来事でもありました。トマスやペトロがそうであったように、キリスト者は七度転ぼうとも、立ち上がることができます。なぜならば「わたしたちは神に希望をかけているからです」
「あなたは理想の人になれる」 ヨハネ 1:35~42
ローマカトリック教会の総本山、サンピエトロ寺院は、聖人ペトロにちなんで建てられた教会です。
しかしかつてのペトロは、主イエスが十字架に架けられる時、裏切るような人物でした。主イエスは全てをご存知の上で、彼の可能性・未来を見据えて「あなたはヨハネの子シモンだが、ケファ(ペトロ)と呼ぶことにする」(44節)と、断言されました。「あなたを・・・する」これこそが全能の神の力です。彼は主イエスの愛と期待を受け新しく造り変えられ、教会の柱となる大きな働きを成し遂げました。
ペトロは主イエスを裏切った後、後悔し自分を責めた事でしょう。
しかしそこで終わったら、人間は罪に潰されて落ちて行くだけです。神は私達の汚れを自ら所有してくださり、御霊によって可能性を引き出してくださるお方です。
その為に主イエス自らが、私達の前にお姿を現わし「来なさい」と招いております(35~42節)。
今、自分の歩んでいる路線・起動を外れて、主イエスが歩んでおられる道に私達が自ら出て行く事が必要です。更にその呼びかけに、応答する責任が私達にはあります。
その結果「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5:17)の如くに永遠に私達の可能性を現実に変えてくださる、神の御業を経験する事ができます。ですから、私達は過去の失敗から立ち上がらせて頂く事ができるのです。
旧約聖書時代、イスラエルの民は神に背き、神のみ言葉を受け取る人・従う人がいなくなった為に、神は口を閉ざされた時期がありました。
私達が生きていくに当って必要不可欠な事は神からのお言葉です。神がその口を閉ざされた時、人は全ての可能性を失い、底に落ちていく人生を歩むしかありません。
英国のある批評家は、主イエスは理想を挙げるだけでなく、その理想を事実として実現する力をご自身の中に持ち、かつ提供される方、という事を言っております。「神に仕える人はどのような業をも行うことができるように十分に整えられるのです」(Ⅱテモ3:17)とありますように、自分の欠点・罪に支配されるようなつまらない人生に終止符を打ちましょう。私達が理想の人になる事ができる、実現する力を持っておられる神にお仕えし、無限の可能性を引き出して頂く1年とさせて頂きましょう。その為にも今一度、私達に与えられた命を見つめ直したいものです。