幸い—心の清い人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」 マタイによる福音書5章8節
 イエス様は「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と語られました。心の清い人とは?イエス様のお言葉を素直に聞き、ぶれることなく、純粋に受け止めて応答する人、お言葉に何かを加えたり、引いたりしない人、そういう「清き人」は幸いです。その人々が神様を見ると宣言されます。イエス様が語られたお言葉は、信仰そのものを表していると言えます。
 私たちはイエス様のお言葉に、常に聞き従って歩んでいるでしょうか。罪の誘惑から、現実の困難から祈るべきだと知りつつも、祈れない自分の姿を見ます。省みれば信仰者として生かされていても、罪多き者であることには変わりません。神様はどこに居られるのか、遠くに離れて居られるのか、お姿を見失ってしまいます。
 詩編51編は、ダビデが不貞の罪を悔い改め、神様に赦しを求めた歌と言われています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。ダビデは神様に「清い心」を創り上げてくださいと祈り求めます。私たちに、本当の「清い心」を与えてくださるのは、イエス様お一人です。
 イエス様は罪人である人間の汚れた心を、十字架の血潮によって洗い清めてくださったのです。私たちは自分自身の業で「清く」なれることは決してありません。しかしイエス様の十字架の死と復活があります。私たちの罪の赦しのために、十字架かかって死んでくださった神様を見る幸いがここにあるのです。
 小松川教会の礼拝堂の正面には十字架が掲げられています。周囲を見渡せば共に信仰に励む友が会衆席に座っています。礼拝で信仰者は「神様と出会う」経験をします。それは罪の贖いと復活の命を見ることです。生きて働いてくださる神様を、今、ここで、見るのです。それは、信仰に生かされている「心の清い人々」と共に生きる幸いに、私たちを導きます。
 罪の汚れを、イエス様の十字架によって清められたことを信じて歩むのが、主が望まれる信仰者の姿です。イエス様は「心の清さに生きる」という幸いを信仰者の集まりを通して伝えようとされているのです。
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