幸い—義に飢え渇く人々
マタイによる福音書5章3~10節
主題聖句 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」 マタイによる福音書5章6節
「義」には3つの意味が含まれていると考えられます。第一は「神の義」です。この「義」は神の属性、存在であり事実です。神=義、と表すことのできるものです。第二は信仰義認の「義」です。義ではないわたしたちが、信仰によって義とされる。これは例外なく受動態でしか使えない、「義とされる」という形でしかわたしたちの内には表されないものです。第三は、神の御目に正しいことを行う、という意味の「義」で、これは唯一わたしたちが関わることができる義です。
内村鑑三は、信仰義認について一文を書いています。その概要は「空気や日の光は人間に不可欠のものだが、人間が造りだすことはできない。創造主がお造りになったものを感謝していただくのみである。神の義もこれに似て、人の努力で得ることはできない。ただ神から与えられるものを信仰の手をもって感謝して受けるのみである。」
義に飢え渇く人々は満たされる、とあります。ヨハネの福音書に書かれるイエス様の最初の奇跡は、婚礼の宴会のために水をぶどう酒に変えるというものでした。イエス様に命じられた召使いたちは、「かめの縁まで水を満たした」とあります。満たされた水が次に汲まれた時には、良いぶどう酒に変えられていました。満たされるためには、そこに人の働きが加わります。そして満たされたものはもっと良いものに変えられます。
わたしたちには誘惑があります。自分で自分を「義」としたい、正しいことをしている、言っている、と思われたいのです。この誘惑に負けると、義に飢え渇くことを忘れ、自分で作り上げた偽物の義を身にまとうことになります。
コロサイ3:9~10