人間とは何者なのか

ヘブライ人への手紙2章1~9節

澤田直子師

主題聖句 「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」 ヘブライ人への手紙 2章3a節
 2節の「天使たちを通して語られた言葉」とは律法を指します。モーセがシナイ山で十戒を授けられた時、天使たちが神に仕えていたという言い伝えがユダヤ教にあったのです。その律法をはるかにしのいで、完全なものである福音にむとんちゃくであるならば、罰を逃れる術はもう一つもない、ここで言う「罰」とは神との永遠の断絶です。
 律法は神様からの命令です。多くの人が共に暮らす時に必要なルールです。また、ユダヤ人が神の選びの民として、神に守られ続けるためにも必要でした。命令違反は処罰の対象になる、これはわかりやすいことです。
 福音は命令ではありません。福音は、招きです。全ての人に届けられる神様からの招待状です。洗礼は、この招待状に「はい、わたしはまいります」と返事をすることです。招待状の封を切っていない、中身を見たが返事をどうしようか考えあぐねている、そういう人もいます。そのために教会があり、集う者たちが証をするのです。それが4節に書かれていることです。
 聖書には「人間とは何者でしょう」という問いが何度も出てきます。「救われる」ということは、神様との確固たる絆ができる、決して切れることのない関係が保証される、ということです。しかし信仰が深まるにつれ、ある疑問が生じてきます。それは「このわたしが、なぜ?」大伝道者パウロも、望んでいる善ではなく望まない悪を行っている自分を「なんと惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。洗礼を受けたら何の苦も迷いもなく善い人になれるということはなく、むしろ葛藤が増えるかもしれません。
 ふさわしくない者をふさわしくするために、神は独り子を十字架につけて死なせました。これが、神が示される福音です。それほどまでに愛されたわたしたちは、この愛に依り頼み神の御許に留まろうとします。これが、信仰者が神に応える福音です。福音を味わい尽くし、養われて、遣わされて行きましょう。
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