1月10日 礼拝説教概要

「通用する信仰」 マタイによる福音書7章21~29節
⑴現代、カトリック教会全体が「実生活と信仰の遊離」という問題に取り組んでいるそうです。
キリスト者の多い地域であるにも拘らず政財界の腐敗や麻薬売買、殺人、そして幼児売買すら頻繁している地域があります。それは特別な地域ではなく、信仰とは遊離している人々の姿が世界の各地で見られるのは周知の事実です。極端な話に思えますがプロテスタントも同様です。
主イエスは、「あなたたちのことは知らない」と言われる時が来ることをここに語ります。主イエスは、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではないことを明言します。「入れる人とは誰か」と言うと、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」と語られます。そして「あなたたちのことを全然知らない」と言われることはいつかと言うと、「そのとき」であると言うのです。
それは主イエスの再臨の「そのとき」です。再臨の主イエスによって、「わたしは、あなたがたのことを全然知らない」と言われる時が来るというわけですこれは信仰を持っているつもりの者に対して語られている言葉です。
それ故に自分は無関係であるとは言えません。
再臨の出席者イエスの前に通用しない信仰があることをここに明言します。
⑵通用する信仰とは如何なるものであるかと言うと、「岩」の上に建てられた信仰であると主イエスは言われます。「岩」か「砂」か、大変分かり易いたとえではありますが、果たして自分のこととしてこのことが本当の意味で自分のものとなっているでしょうか。
信仰の中身が問題です。通用する信仰とは、「神の御言葉を聞く信仰」です。更に聞くだけではなく、行うことが求められています。行う人とはどのような人であるかと言うと、主を全く信頼している信仰者です。
幼い我が子が全く親を信頼し切って全てを委ねているように、私たちも同じような信頼をもって主の招きに応えていきたいものです。