神が罪を暴かれる

創世記44編11~17節

澤田直子師

主題聖句 「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」 創世記44章16節より
 ヨセフの兄弟たちは、末の弟ベニヤミンを連れてエジプトに来ました。シメオンも返され、食料を買うこともできて、後は帰るだけです。しかしヨセフは彼らをすぐに帰したくはなかったので、銀の盃をベニヤミンの袋に入れ、盗みの疑いをかけて引き返させます。
 刑務所教誨師の研修で「どんな人も、していないことを証明できない」という原則を聞いたことがあります。兄弟の誰も、盃を盗んではいません。でもそれを証明する術はありません。わずかな間に、兄たちの思いは喜びと平安からどん底に落ちてしまいました。まるで、ドタンでヨセフが兄たちに穴に落とされた時のように。
 ユダは、もう申し開きはしない、身の証しを立てることはあきらめた、と言います。神のみが知るある事によって、自分たちの罪が暴かれたのだ、だから全員ヨセフの奴隷になります、と覚悟をあらわにします。ユダは、「神様の罰が当たった」とは言いません。「神が罪を暴かれた」と言うのです。誰かに対して暴いたのではなく、ユダ自身に暴かれた。今まで、あれは仕方なかった、とか、できるだけのことはした、とか、終わってしまったことだと振り返らないで来たことを、神様に「おまえはそれでいいのか?」と問われたと感じたのです。
 ユダは自分たちの罰を自分で決めます。弟を奴隷に売ろうとした自分たちは、奴隷になることでその罪を償おうとしたのです。でもこの考えは正しくありませんでした。ヨセフもこれを受け入れようとはしませんでした。
 神様は、わたしの罪を、全ての人の罪をご存じです。そして、一切の妥協も、見逃すこともなさいません。しかし神が罪を暴かれるのは、ただ、その人自身にのみ、です。ですから何を怖がることも、言い訳することも要りません。自分を罰することも要りません。ただ、神の御前に身を低くし、打ち砕かれた魂を捧げるのみです。
 詩編、預言書には、神の前にへり下り、罪を告白する時、神は豊かに赦してくださる、と書かれています。主に赦されて、感謝と喜びの道を行きましょう。
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