民衆の希望
マタイによる福音書27章15~26節
主題聖句 「ピラトは、人々が集って来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』」 マタイによる福音書27章17節
イエス様の裁判は、関わった者たちの「希望」をあらわにします。「ピラトの希望」は、ユダヤ人の妬みによって訴えられたイエス様を、助けることでした。しかし、無罪判決を出せばイエス様を訴えた者たちの反感を買い、ユダヤ人暴動の引き金になりかねません。
「バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」そこでピラトは過越祭の恩赦の慣例を利用し、ユダヤ人囚人の一人としてイエス様を釈放しようとします。民衆が、評判の悪人バラバを選ぶことは無いと確信し、ピラトは民衆に決断を迫ります。
しかし、現実は、ピラトの希望とは正反対の方向へと動き始めます。民衆はイエス様を「十字架につけろ」と、叫び始めます。それはイエス様を訴えた「祭司長、長老たちの希望」であって、彼らの説得によって、今は「民衆の希望」に変わってしまいました。ピラトは混乱します。
民衆の叫びに対抗するピラト、反面、ユダヤ人が暴動を起こせば、それはユダヤ総督の責任問題へとなりかねません。彼は自己保身ために自分の希望を変えざるを得なくなりました。ピラトは「民衆の希望」を聞き入れ、バラバを釈放し、イエス様を十字架へと追いやります。
信仰生活はイエス様に従う真理を選ぶか、この世に従う真理を選ぶかの決断の繰り返しであると思います。イエス様に従う時には、苦難を選ばなければならない時があります。苦難の中を通らなければ見えてこない希望があります。
イエス様は、偽りの希望に翻弄されている人々のすぐ近くに居られ、黙して見ておられました。イエス様のお気持ちを察すると、いたたまれない思いです。
裁判は一人の罪人(ざいにん)が無罪として、釈放される判決となりました。罪人(ざいにん)バラバの唯一の希望は釈放されることでした。それは、イエス様が身代わりとなってくださらなければ、実現しなかった希望です。バラバはイエス様の命と引き換えに、罪人(つみびと)として滅びるはずの命を今得たのです。
このバラバこそ、私たちの姿です。イエス様の十字架の贖いによって、罪赦されて新しい命を与えられた、私たちの姿です。ここに私たちに与えられた永遠の希望があります。
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