弟子の足を洗う
ヨハネによる福音書13章1~11節
主題聖句 「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」 ヨハネによる福音書13章7節
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から・・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」目の前にいる弟子たちの弱さ、その中の一人、ユダは間もなく裏切る者となることをも知りながら、イエス様は弟子たちの「足を洗い」始められました。
ユダヤでは、訪ねて来た者を歓迎する業として、来訪者の足を洗いました。それはおもに奴隷の仕事とされていましたが、弟子たちを愛し抜かれ、これからも続く関係を証しするために、イエス様は夕食の席から立ち上がり、自ら弟子たちの足を洗い拭かれます。しかし、ペトロは、「主よ、あなたが・・・。」と、イエス様の業に戸惑いを隠しきれません。
イエス様が来られる以前は「十字架刑」は政治犯や重罪人を処罰するローマの刑法であり、一般人も目にする機会がありました。また、「足を洗う」ことは、全くの日常の出来事です。しかし、十字架刑も、足を洗うこともイエス様が関わられると、特別な、そして一度限りの出来事に変わりました。
イエス様は弟子たちに「師であるイエス様に足を洗われる」体験をさせられました。十字架がただ一度きりであるように、弟子たちの足を洗われたことも、ただ一度のことになりました。十字架は救いの約束の成就、弟子の足を洗われたことは、イエス様と弟子たちの歩みが永遠に続くことを示しています。この後、十字架と復活を経験した弟子たちは、使徒となって十字架の愛を証し続けます。イエス様の、愛の証しの物語がここにあります。
「わたしのしていることは、…後でわかるようになる。」イエス様はこの世に留まる弟子たちに、御言葉と祈りを残されます。神様のご計画であるイエス様の十字架と復活、その御業が成就した時に、弟子たちは使徒として世界中に福音を宣べ伝える者へと変えられますが、今の弟子たちには、考えも及ばないことです。イエス様が弟子たちを「愛し抜かれた」のは、弟子たちがはっきりと「十字架の意味を知る者」となるためにです。
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