一粒の麦

ヨハネによる福音書12章20~26節

澤田 武師

主題聖句 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」ヨハネによる福音書12章25節
 アンデレとフィリポはイエス様にギリシア人の願いを告げます。イエス様のお答えは「人の子が栄光を受ける時が来た」。そして、蒔かれた「一粒の麦」に例えて、話されました。
 まだ誰も、今、十字架の出来事が迫っていることは分かりません。そして、弟子たちも、神様のご計画としての、十字架の意味を知ることはできません。 
 この世が復活の命で満たされ、信じる者に豊かな実を結ばせるために、十字架に死ぬために、イエス様はエルサレムに入られたのです。
 厳密に言えば、イエス様の例えは現実とは異なります。蒔かれた一粒の麦は地の中で生きます。死にません。その命は土地の栄養や水、空気によって、新しい命として再び実をつけます。
 しかし、イエス様は、「一粒の麦がそのままの姿で生き続けることを放棄する」ことが「死」であると言われます。「一粒の麦」の死は、到底作物も実らない土地ですら、豊かな実を結ぶ土地へと変えることができます。イエス様の十字架の「死」は、罪に覆われた心も、永遠の命をもつものへと変えてくださいます。そこにイエス様の十字架の死が必要なのです。
 私たちには、神様に創造された者として、限られた時間、その中で生きる命が与えられています。イエス様を知る、信じることにより、イエス様が十字架の死をもって、私たちの限りある命を、永遠の命へと変えてくださった。罪に汚れた命を、聖なる命としてくださった。私たちは、生物としての死は体験していませんが、既に、死んだのです。そして、罪赦された者として永遠の命をいただいたのです。ここに死を乗り越えて行く希望があります。
 十字架は、人間的な思いから見れば、何も変えることのできない、敗北の姿、無益な姿です。しかし、この十字架の死によって、人々は救われるのです。イエス様は率先して、十字架に架かってくださったのです。信仰とは、大胆に神様に委ねていく生き方です。神様に命を委ねた者には、永遠の命が与えられると信じて生きることです。自己に死に、神様の前に生きましょう。
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