御前に立たせてください
詩編41編
『どうか、無垢なわたしを支え とこしえに、御前に立たせてください。』 詩編41編13節
この詩編からは、神の忠実な僕であった誰かが、病になり、そのために信頼していた人々からも冷たい仕打ちを受けて、しかしどこまでも神を信頼して祈り、感謝する、そのような人物像が浮かんできます。
四重の福音の2つ目は「聖化」です。聖書では「聖」という言葉は、分離する・別にする、という意味を強く持っています。それは、神様に献げるものを別に取り置くところからきています。ですから、人間に対して「聖化」という言葉を使う時は、その人が、生きた聖なる供え物として神に奉げられるにふさわしいものに変えられることを意味します。
この詩編の作者は、病の中にあって「どうしてわたしがこんな目に遭わなくてはならないのか」的な事は一言も言いません。この人の祈りは、病が癒されることでもなく、自分を苦しめる人々に報復することでもなく、「とこしえに御前に立たせてください」ということです。
「聖化」は、人間が努力して自分を高い所に引き上げる、ということではありません。プロテスタント神学には修行や難行苦行で人格を高めるという概念はありません。わたしたちは、このままの姿で神の御前に行くのです。そのこと自体が、わたしたちを変えずにはおかないのです。
聖化とは、神の御前に立って徹底的にへりくだることであり、何も惜しまずに明け渡すことです。ウェスレアン神学事典にはこう書かれています。
「全き聖化のための必須条件は信仰である。しかし信仰の先行条件はささげること、または自己を明け渡す行為であり、キリスト者だけがなしうることである。」なぜなら、まずイエス・キリストがご自身を捧げてくださったそのお姿を、わたしたちは知って、信じているからです。ガラテヤ2:20「生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」これが聖化の目標であり完全形です。聖書は、信仰者に、キリストの歩みをなぞることを勧めています。
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