神の子と大祭司
ヨハネによる福音書11章45~57節
主題聖句 『国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。』 ヨハネによる福音書11章52節
奇跡を目の当たりにした時、人間の反応は二つに分かれます。神の御業を信じて感動し喜ぶ人と、「偶然だ」「運が良かった」と考える人です。後者のサドカイ派とファリサイ派は、ユダヤ人社会の最高法院サンヘドリンを招集します。そこでの話し合いに「イエス様とは誰なのか」という視点はありません。彼らは自分たちの身分と生活が守られることが最も大切なのです。そこには真理はありません。
大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか」
と言い放ちます。
実は神様も全く同じことを計画しておられます。一人の人間、イエス様が全ての罪を背負って死に、十字架の贖いを信じる人々が救われることを、神様も望んでおられたのです。エレミヤ書1章9節に「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」
とありますが、カイアファの口から出た言葉も、身勝手な考えのようでいて、実は神様が授けた言葉だったのかもしれません。
イエス様が十字架で死なれた時、カイアファたちは、自分たちの計画がうまく運んだことを喜んだでしょう。しかし同じ時に、神様も、救いの成就を喜んでおられたのです。こうした事を考える時、人間の考えがいかに狭いか、また、神様はどのような事であれ、最善に変える力を持っておられると思わされます。
カイアファの目論見はうまく進んだように見えましたが、わずか40年後には、エルサレムはローマによって完全に破壊され、神殿も失われ、イスラエルの民はその国土を失いました。それに対して十字架の贖いは二千年近く経った今でも、その効力を持ち続け、人々を救い続けています。
神様のご計画を見、聞き、信頼して、永遠を求めていきましょう。
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