7月5日 礼拝説教概要
「どうしてと何故思うのか」 創世記4章1~16節
神によって創造された同じ人間でも、生まれながらに不公平や不条理を覚える私達です。農夫であるカインは神に彼の土地の産物を献げ、牧羊者アベルは羊の群れの中から肥えた初子を神に献げました。しかし、理由は何も記されていませんが、神はアベルとその献げ物に目を留められました(2~5節)。その事でカインは激しく怒ったので、神は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか・・・」と問い正しました(6~7節)。これは示唆を含んだ問いです。
献げ物は神の恵みの大きさに対して精一杯献げるものですから、自分に対する神の祝福が分かる人は、喜んで最善の物をお献げします。カインは果たして精一杯感謝と喜びを持ってお献げしたでしょうか?もしそうであれば顔を上げて神に「どうして目を留めてくださらないのですか?」と、問う事ができた筈です。後ろめたさがある故、神に問う事なくその怒りをアベルにぶつけたのでは、と神の言葉から推察されます。
自分自身にも神にも心を堅く閉ざして、ついにアベルを抹消してしまいました(8節)。罪を犯す時は心を閉ざす時です。悔しさも怒りも神に向っている内は必ず解決はあります。
ヨブという人物はこれでもか、という程の不条理を味わった人ですが、困り抜く経験を通して涙を流しながら徹底的に神に問い続けた結果、全ての解決が神から与えられました。主イエスも十字架にお架かりなる前に「なぜ私をお見捨てになるのか?」(詩編22篇)と神に問いました。徹底的に「どうして?」と神に訴え続けた所に、答えと勝利があります。そして同時に神の深い御旨に触れて、感謝して人は生かされていくのです。
カインは罪を犯した後「私の罪は重くて負い切れない」と、やっと心を神に開きました。神は罪人の印をつけられましたが、神のものでもあるという印でもあります。神から捨てられながら同時に神から目を留められているカインの姿は私達の姿でもあります。罪を犯しつつも尚、生かされて神に保護され、赦されながら変えられていく事に感謝しながら歩んでいる私達です。