前途が多難でも

使徒言行録27章1~12節

澤田直子師

 パウロは、いよいよローマに向かって出発します。百人隊長ユリウスはパウロに一目置いて親切に扱い、仲間のルカやアリスタルコも同じ船に乗るという恵まれた船出でした。しかし残念ながら海に出るには、季節が少し遅かったのです。地中海では夏の終わりから春になるまで、強い風が吹き荒れます。パウロはそれを心配しましたが、船長と船主は大丈夫だろうと判断し、百人隊長ユリウスも船長の判断を支持しました。
 パウロは、おそらく危険な目に遭うだろう、船は難破するだろう、と予想しながら、船に乗っていきます。これは不思議なことに思えますが、しかし、信仰生活とは、時に、冒険が待ち構えていることを承知の上で前に進まなければならないことがあるのではないでしょうか。
 パウロと同じように船に乗って嵐に遭った預言者、旧約聖書のヨナは、海に投げ込まれて魚に飲まれ、三日目にニネベの海岸に吐き出されました。神様のご計画は成就するのです。
 イエス様の十字架の死を見届けた律法学者は、自分たちの天下だと喜んだでしょうが、実はそうではなかった。復活のイエス様に会った弟子たちはもうこれで大丈夫と安心したでしょうが、そこからが本当の出番でした。
 わたしたちが世を見て判断することと、神様のご計画の進み方は違います。パウロはそのことをよくよくわかっていました。だからこそ、海が荒れることを、危険な目にあうことをわかっていて、神様のご計画の中に飛び込んで行ったのです。
 キリスト教を言い表す言葉が幾つかあります。「愛の宗教」「体験の宗教」など。その中に「にもかかわらず」の宗教、という言い方があります。パウロはキリスト教の迫害者だった。にもかかわらず、福音を伝道する者に変えられた。皆さんの信仰生活の中にも、たくさんの「にもかかわらず」があるのではないでしょうか。
 前途の多難さに立ちすくむわたしたちと、「神は共にいます」というのがキリスト教です。神共にいますならば、パウロのように前途に何が見えようと、主に信頼して世に漕ぎ出して行きましょう。