何を見て生きるか

ルカによる福音書20章9~19節

澤田直子師

 イザヤ書以降、「ぶどう園」はイスラエル民族を表す言葉とされています。
ぶどう園の主人が送り込んだ僕とは旧約聖書の預言者たちを、最後に送った愛する息子はイエス様を表します。
 パレスチナでは不在地主の存在は珍しくはなく、実際の労働者に手厚い律法が定められていました。地主は土地の賃貸料ではなく、収穫物の3割程度を取り分としましたから、豊作でも不作でも、収穫を農夫と分け合いました。しかし、収穫物の全てを得たいと願う農夫たちは、主人から送られてくる僕や息子を拒絶します。神の御声を聴かず、聴いても従わないのは創世記以来の人間の姿です。
 ここでもまだ民衆はイエス様に期待し、喜んで話を聞いていますが、数十時間後には「十字架につけろ」と叫びだすのです。『家を建てる者の捨てた石これが隅の親石となった』 とは詩編118編22節の引用です。隅の親石については主に①アーチ門の一番上の石、②大きな建造物の角に使う石、の2説あります。どちらにしても、二方向からの力に耐えうる、傷や割れのない固い石が選ばれます。この世の富、権威を求める者たちが捨てた石がまことの隅の親石となったのです。ダニエル書2章にある、巨大な像の夢を思い起こさせます。
 ぶどう園を預けられた農夫が見ていたのは、自分たちの働きだけでした。律法学者たちが見ていたのは、この世の権威でした。民衆は、自分たちは何もせずに、強大な力でローマから解放してくれる指導者を見ていました。イエス様は何を見ておられたでしょうか。福音書を読めば誰にでもわかることです。イエス様は、いつも、どこでも、弱い者、虐げられた者、貧しい者に目を留められました。そういう人たちこそ、神の国に招き入れられる、と教えてくださいました。
 第一コリント6:19 『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。』 私たちは神の宮です。その隅の親石から決して目を離さずに歩みましょう。