裁く者、助ける者
使徒言行録23章12~22節
パウロを亡き者にしようと、40人ものユダヤ人が集結して誓いを立てます。誓願成就しない時は呪われてもよい、という強い近いです。彼らはユダヤ教徒でありながら、十戒の第6戒『汝殺すなかれ』より自分たちの正義を上に置こうとしています。人間が自分の義を貫くことにこだわるとこのような間違いに突き進んでしまいます。
この危機を救ったのは、パウロの甥、名も記されていないユダヤの若者でした。彼は聞きつけた陰謀をパウロに知らせ、機転を利かせたパウロは百人隊長を通じて、千人隊長にこの陰謀を知らせます。一介の少年がローマの千人隊長にと、直に、二人だけで話をするとは、どんなに緊張したことでしょう。しかし若者が自分のすべきことをしっかりと行った時、この行動がパウロをローマに送るきっかけを作ります。
聖書では、人が人を裁くことを厳しく戒めています。ルカ6:37『人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。』また、ローマ14章:4『他人の召し使いを裁くとは、あなたはいったい何者ですか』わたしたちは、自分は正しくはあり得ないのだ、ということを忘れてはなりません。イエス様の命に贖われたわたしたちは、他人を裁くなどできるはずがないのです。
神様はわたしたちを本当に愛してくださっているので、選ぶ自由を与えてくださいました。わたしたちは、歩んでいく道の至る所で、「裁く者」になるか、「助ける者」になるかを選ばなくてはなりません。イエス様は、どちらを選ばれたでしょうか。十字架に釘づけられる時でさえ、イエス様は「助ける者」でした。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。』この祈りによって、わたしたちはまだ罪人であった時に救われました。
自分の正しさを鎧にまとって、「裁く者」となるか、それとも、小さな勇気を奮い起こして「助ける者」となるか。祈りによって、賛美によって、御言葉によって、わたしたちにはいつもイエス様に従う道が示されています。与えられた隣人を「助ける者」として歩みだしましょう。