4月12日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「涙が拭われる時」 ヨハネによる福音書20章11~15節
⑴「わたしは主を見ました」とのマグダラのマリアの証言をもって、世界の歴史は大きく変えられてゆきました。主イエスの復活は別離の悲しみに沈む人の涙を拭い、その悲しみを大きな喜びに変える救いの御業です。パウロは「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(コリント一15:17)と記しておりますが、もしキリストの復活がなかったのなら、キリスト信仰は過去の遺物になってしまいます。しかし、主イエス・キリストは死より復活されました。それがイースターの出来事です。
⑵信仰はキリストを求めて前進するものです。マグダラのマリアの前には墓を塞ぐ大きな石がありました。女の力では動かしようがありません。しかしキリストを求めて駆けつけた時に、既に石はころがされておりました。問題が解決されたからではなく、解決されぬとも、前進した時に既にその問題は解決されていたのです。
⑶主イエスは「なぜ、泣いているのか」と語りかけてくださるお方です。悲しみの果て声も出ない、失望の故に顔も上げることのできないわたしたちに、主イエスは声を掛けてくださる救い主です。そして信仰とは生ける主を信じることです。マリアは復活された主イエスを園丁と勘違いしてしまいました。私達が陥り易い間違いは、墓守のような信仰です。私達の信仰は死せる方ではなく、十字架に架かり、死より復活された生ける主イエス・キリストです。復活の主イエスは悲しみを喜びに、絶望を希望へと変えてくださるお方です。