空虚の時に挑む
使徒言行録17章16~21節
『弾圧記念礼拝』 1942年6月26日早朝、ホーリネス系の教会は弾圧を受け、牧師は一斉検挙され、教会は解散を命じられました。拘留中に天に召された牧師、健康を激しく害して帰って来た牧師、本人だけでなく牧師の家族も試練の中に投げ込まれました。忘れてはならない事です。
使徒の舞台はアテネに移り、パウロはここでも福音を宣べ伝えようと奮闘します。17:16 『この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した』 アテネは人口5000人ほどの小さな町でしたが、高い文化と学問を求めて、多くの人が訪れました。町のあちこちに飾られた偶像は人口よりも多かったと言われます。人々は、偶像に満足し、真の信仰を求めることもなく、毎日長い時間を空虚な議論に費やしていました。そういうライフスタイルが、身分の高い人々にはふさわしいものと考えられていました。
エピクロス派は唯物論主義、ストア派は汎神論主義、彼らの議論に巻き込まれたパウロは、アレオパゴス(評議所)に連れて行かれます。それは学問上の議論を評価する場所でした。神の御言葉は、道に落ちた種のように、芽を出す間もなく鳥が来てついばんでしまいます。それでもパウロは語り続けます。福音を宣べ伝えることはパウロの命です。
わたしたちの周りにも、アテネがあります。偶像が至る所に飾られて、空虚な「新しい事」に人々は振り回されています。アルコール依存、薬物依存、ギャンブルで苦しむ人もいます。自分や他人への暴力を止められない人がいます。オンラインゲームやSNS、ラインなど、一見便利そうに楽しそうに見えるものも、使い方を誤ると、膨大な時間を食いつぶし、人を傷つける道具にもなりかねません。
しかし、そういう現代の偶像に振り回される人々をも、神様は愛しておられます。惜しんでおられます。ヨハネ3:16 『神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』 わたしたちは、この神様の愛に救われた者です。神様の愛を知る者として、ふさわしい歩みをいたしましょう。