ここにも来ています
使徒言行録17章1~9節
主題聖句 「大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。』」
17章6節より
パウロは、安息日にユダヤ人会堂で、聖書を引用してイエス様を宣べ伝えました。当然信じないユダヤ人との間には論争が起こります。テサロニケでの出来事には、「伝道」に携わる者の姿が現されています。
「伝道」広辞苑では「主にキリスト教で用いられ、教理を宣べて未信者に入信を促す」と説明されています。パウロは、「イエス様の十字架の苦しみこそ、わたしたちの罪のため、イエス様自らが贖いの生贄となられた。復活はイエス様が十字架の死からよみがえり、全ての罪からの救いを完成された。また、イエス様こそ、この全てを成し遂げくださるためにこの世にお生まれになられた。」と、大胆に宣べ伝えます。結果、信じた者が大勢起こされました。しかし、ユダヤ人たちは「ねたみ」、彼らを「世界中を騒がせてきた連中」と呼び、「ここにも来ています」と訴え出ます。この名前は奇しくも信仰者の真の姿を伝える名前でもあります。
それは「教会の名」でもあります。ローマ皇帝が唯一の「主」であることが絶対の時代、イエス様を「主」と信じることは、死をも覚悟しての生き方を現しています。この名前は、何もこの時代の信仰者だけのものではありません。わたしたちの日常の中に起こる信仰の問題、真理を貫くことから起こる問題。この世から見ると「世を騒がせてきた連中」としていつの時代でも信仰者は存在します。
パウロは「伝道」の成果として、その地域に教会が立ち上がることを目指しました。新たな地域に「教会を生み出す」、世界の隅々にまでイエス様を宣べ伝えていく「ここにも来ています」働きをも求められています。
また、「わたしたちの名前」でもあります。新聖歌483番「両手いっぱいの愛」では“どのくらい僕を愛しているの”との問いにイエス様は“掌の傷”をお見せになりました。イエス様を知ってはいたが、今自分の心の中に来てくださっていたことに気づかされた。「世界中を騒がせてきた連中」が、わたしの名前として、イエス様に満たされた歩みが「ここにも来ています。」
そう呼ばれる伝道に励む教会として歩みましょう。あの人はイエス様を信じ、イエス様に満たされている。そう呼ばれる信仰者として歩みましょう。