神の言葉はとこしえに (敬老感謝礼拝)
イザヤ書40章1~11節
「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)一面に草が生えその草も花を咲かせていますが、それは一時的な美しさで秋になれば萎み枯れます。そうでなくても台風が吹き大雨が降れば倒れてしまうと、人の命について語っています。確かに私たちの命は草のように萎み倒れてしまうようなはかないものです。しかし、人がそこで終りと思える所で語られる神の言葉、聞くべき御言葉が消え失せることなく与えられているのです。これが信仰の世界です。「・・・とこしえに立つ」とは、「立ち上がる」という意味です。私たちが信じている神は、枯草のような命を再び生き返って立ち上がらせてくださり、希望なき所に希望を与えてくださるのです。
イスラエルはバビロニア帝国に敗れ都エルサレムは崩壊し、神殿は略奪され廃墟となり、人々はバビロンに囚われ人となったのです。彼らこそ草は枯れ、花はしぼむ痛切な体験をしました。彼らは神に特別選ばれ恩寵を受けながら導かれていましたが、神の慈しみと真を軽んじ不信仰と不従順を繰り返し、ついに亡国の民となったのです。
民族がずっと続くということはないように、歴史の中の変化や消滅は自然に起こった訳ではなく、「主の風が吹き付けたのだ」(7節)と、つまり神からの裁きだというのです。人間の罪とその結果を思いながら語っています。しかし、そこで語られる神の言葉を聞いたのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(1節)愚かな罪人である人間に忍耐をもって執り成してくださり、再び神に立ち帰る時が来たのです。慰めるとは単に悲しみを和らけるのではなく、励まし力づけることを意味します。再び神の言葉によって、神に導かれて行く幸いです。
「見よ・・・」(9,10節)今も生きておられる神が佇んでおられるのではなく「小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(11節)と、お母さんが優しく子どもを抱き抱えるように私たちを抱え込んでおられます。イエス・キリストの十字架による赦しにより、どんなに罪を犯し不忠実であっても、神の真実は変わることなく助け支えてくださいます。人は神の期待を裏切ってばかりいるにも拘らず、永遠に変わらない真実をもって私たちに語りかけてくださる神の言葉があります。だから私たち皆、死から命へと立ち上がれるのです。