私が示す地に行きなさい
創世記12章1~8節
人の一生に「時」は、決定的な役割を果たします。その時をどのように受け止めていくかによって、人は立ちもし、倒れもします。アブラムと呼ばれる人物が登場しますが、後に「信仰の父」と呼ばれるアブラハムという人で、時を神に委ねて生きた人物でした。
『主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて わたしが示す地にいきなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し…祝福の源となるように…あなたによって祝福に入る。」』(1~3節)彼の生涯はこの日、この時、この場所で鮮やかな一点から始まったのです。これまで馴れ親しんだ場所から離れるという、過去との決別から始まりました。
この旅立ちの具体的な行き先は分かりませんが、神の御声を繰り返し聞きながら示される地へと踏み出すというものでした。確実に分かっている事は祝福という言葉が何度も出てくるように、彼の歩んだ道によって祝福のルートが広がっていくという事です。「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計らっておられる。」(箴言5:21)と、既に神の御前にある用意された道です。
「…蓄えた財産をすべて携え…」(5節)と、戻る事は考えずに神の御言葉を信じ委ねました。神を信じるとは全てを委ねるという事で、委ねた分だけ神は支えてくださり、そうしながら人は神の豊かさと有難さを知っていくのです。しかし、そこには何の苦労もなく幸せいっぱいの世界ではなく、どちらかというと困難な道であることが分かります。先住民のカナン人がいますし、身勝手な甥のロトも一緒です。そのような中で神が支えてくださっている事を深く知り、そこで神を証ししていく事を神は求めておられます。
「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)と、彼は自信があって歩めたのではなく、行き詰まり途方に暮れながら祭壇を築き、祈りながら歩む人生でした。「夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ。もう一度来るがよい。」(イザヤ21:12)暗闇が深いと夜明けが本当に来るのかと不安になりますが、何度でも尋ねなさいと主は仰せになります。神を信頼して必ず朝が来ると信じるなら、人は朝を待つような生き方をしていけます。神が示す地はその時は分かりませんが、祈り神に問い続けながら歩むならば、必ず祝福の命に続く道へと向かわせて頂く事が分かります。