皆さん、聞いてください
使徒言行録7章1~16節
佐々木良子牧師
私たちの人生には予期しない様々な事が起きます。むしろ、その連続といっても良いかもしれません。そのような時に人は兎角、それが自分の運命と嘆いたり、人を恨んだり、自分の足りなさを悲しんだりしがちです。しかし、私たちを支配しているのは運命や人の企て、自分の知恵でもなく全知全能なる神です。御子イエス・キリストを十字架につけてまでも罪びとである私たちを愛し、罪の呪いと死から救ってくださった神の愛による御支配です。
本日の箇所は旧約聖書に登場するアブラハムからヨセフについて語られています。ステファノは敵意をもって捕えられ議会に立たされ偽証されていく中、議長の大祭司によって弁明の機会が与えられました(1~16節)。弁明というより実質的に説教といえるものです。
アブラハムは全てを捨てて神の約束を信じて従いましたが、そこで待っていたのは祝福からは程遠い困難な出来事ばかりでした。しかし、行く先々で祭壇を築き神が共におられることを再確認しながら、神の約束だけを信じ続けて歩み通しました。信仰の父と言われる所以です。そうして祝福の約束は一歩一歩実現していったのです。
同じように、ヨセフの生涯も不確かな未知の世界を歩み続けるような人生でした(9~16節)。彼は兄弟たちから妬まれエジプトに売り飛ばされましたが、神は人の企てを超えていつもヨセフに働かれあらゆる艱難から彼を救い出し、エジプトを治める大臣にまでなりました。更にエジプトとカナンを襲った大飢饉によって、ヨセフは兄弟たちと劇的な再会をして彼は自分を捨てた兄弟達を養うことになったのです。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45:8)彼の人生は、兄達の思惑に支配されていたように見えますが、全ては神の御支配によるものと告白しています。
神を冒涜していると議会に立たされたステファノはアブラハム、ヨセフの人生を通して栄光の神を示し、彼自身の歩みと重ねたのでないでしょうか。神の祝福は机上に固定的にあるものではなく、日々新しく神の御声に従う中で人は祝福された存在となっていきます。人は置かれている状況が問題なのではなく、何に支配されているかです。「キリストの平和があなたの心を支配するようにしなさい…」(コロサイ3:15)