1月25日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「内面を見る主」 マタイによる福音書23章25節~39節
(1)本日の箇所は山上の説教と対になっております。山上の説教は8つの幸いが語られているのに対して、本日の箇所は7つの不幸が語られております。23章14節の御言の後に、太自の十字架のようなマークがありますが、以前ここにもう一節あったが、外されたことを意味しております。有力な写本にこのことがなかったために、定本から外されたのですが、以前の翻訳では8つの不幸が記されていた時代もあった訳です。
しかし明らかなことは、幸いと不幸は対となり、表と裏の関係にあることが意識されていたようです。山上の説教の最初が「心の貧しい人々は幸いです」で、始まっておりますが、「心の貧しい人」とは、自分には何もなく、神以外に頼るもののない人を意味します。一方の不幸な人々のタイプとして最初に語られる人々は、「先生」、「父」、「教師」と呼ばれることを好む高ぶる者、偽善者であると主イエスは、13節以降に語っております。主イエスが問われているのは内面です。
(2)偽善者の特徴は、罪の現実を暖味にする点に現れてきます。「墓」や「記念碑」とはどのようなものでしょうか。過去の偉業を讃えるものです。「預言者の墓を建てる」ということは、どのようなことでしょうか。預言者と彼を通して告げられた神の御言を過去のものとして葬り去り、自分とは関係ないものとしてしまうことです。律法学者、ファリサイ人たちは、表向きは敬っているようであって、自分たちに向けられている神の言葉を過去のものとし、拒もうとする頑なさを彼らの姿の中に見出します。
(3)エルサレムの町をご覧になられ嘆かれた主イエスの嘆きは、今の私達に向けられた嘆きでもあります。この度イスラエルに研修旅行に行かせていただき「主泣きたもう教会」に行くことができました。そこにはめん鳥の親が雛を羽の下に集めて守ろうとしているレリーフがありました。そのめん鳥は言うまでもなく神の姿であり主イエスはその救いへと招こうとしておられるのです。
「主の名によってこられる方に、祝福があるように」(39)は21章9節において子ろばに乗って主イエスがエルサレムの町に入場された際に、迎え入れた大勢の群衆が叫んだ喜びの声ですが「主の名によってこられる方」とは、主イエスを指しております。主イエスは「今から後、決してわたしを見ることがない」と語られましたが、この世から離れようとしておられる主イエスは、再臨されるお方です。この後十字架に追いやろうとする人々も主イエスを歓迎し讃美するその時が来るのです。