初めての教会の姿

使徒言行録2章43~47節

佐々木良子牧師

 「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(47節)初代教会の姿が記されており、教会の原点・伝道の基本といっても良いと思います。代々の教会は手本として教会形成に励んできました。
 「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(43節)多くの不思議な業とは「主イエスの教え」と「主イエスの業」とが弟子たちによって担われたという事です。教会は主イエスの教えとキリストの業を受け継ぎ、世界に向かってイエス・キリストを証ししています。教会とは主イエスがなさっていたこと、教えられたことを実践し継承していく信仰共同体です。
 しかし、教会といえども人の集まる所には意見の違いが生じ、時には対立が起こり問題のない教会はありません。故に私たちは祈り、主が遣わされた聖霊によって、聖餐によって一つとされ、日々変えられていきます。それは全く別の存在に変えられるというのはなく、違いのある豊かさに心が開かれていくのです。人は自分の思いや考えが違うと、ともすると批判し排他的になりますが、個人的な感情の違いは、違いとして受け止められるようにさせて頂けます。
 キリスト・イエスの十字架の赦しの中で一つとされている、神の御心を求める事において一つとなれるのが教会です。神がなさった事を伝えるために、今、私たちがここに存在し、喜んで主イエスを証しする事によって一つとされ教会は建ち上がっていきます。神の御業の中にそれぞれが置かれ、そこで神に用いられながら一つとされた時、今迄、気になっていた他者との違いをも超えさせて頂き、共に認め合い賛美できるのが聖徒の交わり、教会の素晴らしさです。
 神学者で牧師であった植村正久という人は「キリストを縮小するなかれ」と、警告しました。私たちがいつの間にかイエス・キリストを自分の器に合わせて小さくしてしまうことへの恐れです。人の思いが優先して作り上げていく教会は、教会ではなくなり人を救う力はなくなってしまいます。主イエスが教え導いた事、使徒たちが行ってきた事を継承し教会形成のために私たちがここに存在しています。自分たちの思いを小さく主イエスを大きく掲げていきたいです。