こどものように

マルコによる福音書10章13~16節

 神の国・天国(神の御支配の下にある祝福の場)に入る事ができる人は多くの経験や知識をもって自立した大人や、努力、善行を積む事ではなく「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15節)と、主イエスは仰せられます。マタイ18:3では「心を入れ替えて子供のようにならなければ・・・」と記されています。
 子供は可愛い、純粋というイメージを持ちますが、主イエスは具体的に大人の元に保護が必要である存在そのものに目を向けておられます。この世での定義をみますと、文部科学省やユニセフの子供権利条約にもその生存、成長、発達の過程で特別な保護、援助を必要とすると記されています。
 人間は神の似姿として創造され、神より命の息を吹き入れられて神の下に生きる存在とされましたから(創世記1~2章)、本来なら子供、幼子のように常に神の元に保護・援助されながら生きる存在です。100%神に信頼し「イエスさま、ありがとう」と神が愛してくださっている事を単純に心から受け入れ、その愛を分け与える人が神の国・天国に入る事ができます。
 しかし「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(Ⅰコリント13:11)残念ながら成長するにつれ、人は本来の姿を忘れてしまったのです。では、どうしたら取り戻せるのでしょうか。誰一人として自力で心を入れ替える事は不可能ですが、神だけが成し遂げてくださる恵みの世界にもう一度飛び込んでいくのです。
 「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(セファニア書3:17)いつも信じることは何か。それは神によっていつも私は愛されていると信じる事です。主イエスが十字架に架かって死んでくださったほど、私を愛して下さったという事を信じることです。故に「神様を信じていきたい。全てをお委ねして保護されて歩みたい」と祈る事ではないでしょうか。子供が親元で安心できるように、神の保護の元にある時、誰もが喜び、楽しみ、安らぐのです。キリストの救いは単純です。あなたを愛しておられるから、神の国。天国を差し出してくださっております。単純に「どうもありがとう」と受け取り、喜び感謝できる人は幸いです。